つばめグリルの思い出
この文章は2005年にmixiに書いたものの再録です。
品川駅の高輪口を降りると、横断歩道を渡った先につばめグリルが見える。
品川のつばめグリル。僕がまだ学生だった頃の夏休み、実はここでバイトしてたことがあるんだよね。たった1日だけだったんだけど。
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つばめグリルで、僕はウェイターの仕事をした。
お昼くらいから簡単な研修を受けたあと、いきなり夕方のシフトに入らされ、フロアに出て慣れぬ手つきで注文をとり食器を配りお料理をお持ちして、お食事のおわったお皿を片付けた。ちゃんと制服も着たよ。
で、確か10時くらいに仕事が終わり、ぐったり疲れてロッカー室で私服に着替え終わったところで、フロア主任の人が僕に声をかけてきた。
「寺本さー、悪いけど帰る前に社長室寄ってくれる? 社長がお呼びだから」
「社長が、ですか?」
「うん。4階の一番奥のドアね。行けばわかるよ」
「えっと…制服着たほうがいいですよね?」
「いやーそのまんまでいいから。それより今すぐ行って」
「…オレ、叱られるんですか?」
「うーんまあそうだろうなー。じゃ、よろしくな」
バイト初日から、いきなり社長に叱られる僕。
僕は叱られるのが人一倍好きじゃないほうだ。どんよりと重い足取りで階段をあがり、ダンボールが両脇に積まれた不思議に長い廊下を進んでいくと、果たして「社長室」と書かれたドアがあった。
覚悟を決めてノックする。
「失礼します。バイトの寺本です」
「ああ、入れ」
「失礼します」
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緊張して社長室に入ると、そこは思ったより小さめの部屋だった。夏なのにクーラーなしで、しかも窓を完全に閉め切っているから、夜とはいえむっとする程暑い。部屋の中央には立派な机が置かれていて、そしてそこに、ツバメがいた。
これは比喩じゃなくて、正真正銘、本物の鳥のツバメだった。
しかし彼の迫力は明らかに社長のもので、僕は本能的にこのツバメが社長だと理解した。僕はそれまでメルセデス・ベンツを買うのがどういう人なのかよくわからなかったんだけど、このとき初めてメルセデス・ベンツを買う人を目の前で見た、そんな感じだ。もちろんツバメなわけだけど。
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するとツバメが口を開いた。
「君が寺本くんかね?」
「はあ、そうです」
「『はあ』? そんな返事の仕方はないだろう!」
いきなり激昂する社長(ツバメ)。恐縮する僕。いまとなってはかなり笑える状況だけど、僕はそのとき、本気で小さくなっていた。
「すみません」
「すみませんっていわれてもなあ。いいかい、我々がお客様に対して謝らなくちゃいけないときがあれば、それはすでに我が社にとって失敗した後なんだよ! 謝りゃいいってもんじゃない」
「はあ」
「だから『はあ』じゃないだろう!」
これは最悪だ。同じミスをまんまと繰り返しちゃったのは、どう考えても僕の大失敗、怒られて当然だ。案の定ツバメは憤懣やるかたないといった様子になり、ビチビチとフンを撒き散らしつつ机の上を右に左に歩きまわりはじめた。「門倉」って赤い印鑑(とても鮮明だったので今でも覚えている)が押された日次報告書も、白いフンでメチャメチャになってしまった。この書類は出しなおしなんだろう。ひょっとするとこの会社では気にしないのかもしれないけど。
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「君はさあ、フォークやナイフを並べるときやたらガチャガチャ音を立ててたでしょう? 立てたの? 立てなかったの?」
「はい。立てました。すみませんでした」
「お客様に身体をぶつけたこともあったでしょう? ぶつけたの? ぶつけなかったの?」
「はい。ぶつけました。すみませんでした」
「お客様が座ってるテーブルの脚を蹴っちゃったこともあったよね? 蹴ったの? 蹴らなかったの?」
「はい。蹴りました。すみませんでした」
「コーヒーを運ぶとき、受け皿にコーヒーこぼしたりもしたよね? こぼしたの? こぼさなかったの?」
「はい。こぼしました。すみませんでした」
こんな調子で、ツバメは僕をこってりと絞りあげた。
ツバメは営業時間の間ずっと、天井からフロアにいる僕や皆を見てたんだ。それは彼の言葉から伝わってきた。事実に基づく追求に言い逃れなんて出来ない。僕はとにかく平謝りだった。
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そして長いお説教も30分を過ぎた頃、締め切った蒸し暑い部屋で僕はだんだん朦朧としてきていた。
なんたってフンが臭い。鳥を飼ったことがある人なら知ってるだろうけど、鳥のフンってやつは鼻の奥にツンとする独特の臭さがある。僕はついにがまんできなくなって、ちょうど手が届く場所にあった窓を開けてしまった。
…するとツバメは、「ピィ」と鳴いて窓の外へと逃げていってしまった。
一瞬の出来事だった。そして、何分待っても帰ってこない。
フンの臭いがまだ残る部屋で、僕はさすがに大変なことをしでかしてしまったと悟り、誰にも見つからないようにひっそりとビルを出て、品川駅から総武快速に乗って速攻で帰ってしまった。
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そして僕はその日以降、二度と品川のつばめグリルに行くことはなかった。有体にいって、バイトをブッチした。
確か先方から何度か電話があったと思うんだけど、無視を決め込んでいるうちにいつの間にか電話はこなくなった。結局バイト代も振り込まれなかった。でもまあ文句を言える立場じゃないよね。
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今日、久々に品川のつばめグリルをみた。
もう20年以上前の話だし、いまも立派に営業してるのでたぶん誰かがなんとかしたんだろうなーとは思うけど、やっぱり僕はまだその店に入る気にはなれず、アンナミラーズでケーキを食べてうちに帰った。
▼つばめグリル(公式)
https://www.tsubame-grill.co.jp/
(*念のため書きますけど、この話はフィクションです)