無敵 【BFC4応募作】
「道徳は――何が善かを定める法は己のなかにある」
道徳や倫理は、他人から与えられるものでも、ましてや神や自然の摂理などに定められるものでもない。
「わかるだろ?」
具体的に何かをしろとオレが命令することはなかった。彼のなかの自発的な意識・発想・習慣を育むことこそが目的だったからだ。
そうしてオレは加害や窃盗など、世間の言う悪行を働くことに彼を付き合わせた。
初めは躊躇していた彼だったが、踏み込むことを覚えてからは学業の成績同様に優秀だった。かなり早いうちからオレの期待すら超えてくるようになったのだ。
例えば万引きをやるにしても、店員と客の視野角や監視カメラの角度を緻密に計算するために一旦は必ず立ち止まるオレをさしおいて彼は平然と店内を闊歩し、店員や客とすれ違うのを利用して死角を能動的につくるということを教わらずにやった。
「なんだ、これだけのことか」
コンビニを出てすぐに盗った菓子の包装を破った彼を見て、思わずため息が出たのを覚えている。踏み込む勇気は弱くても、ひとたび踏み込めばものすごい勢いで踏み抜く。それが彼の特性だった。その瞬発力はオレを凌ぐように思えた。
盗品による享楽を知った彼だったが、煙草や酒といったドラッグの類いはかたくなに拒んだ。一本だけと紙タバコを差し出せば箱ごと握りつぶされてゴミ箱か窓の外に投げ捨てられたし、酔ってヘンな絡み方をしたときには蓄えていた蒸留酒を片っ端から排水溝に流されもした。
それが彼の道徳で、徹底していた。自ら道徳を定めること――それは既存の道徳が禁じるおこないをすることとは違った。それはただ道徳にもとるだけの悖徳でしかないからだ。
とはいえそんな彼を酔い潰したことが一度だけあった。ジュースと偽って飲ませたチューハイ一缶でへべれけになるほど、彼はアルコールにめっぽう弱かったのだ。
「何も覚えてない」
と後に彼は言ったが、オレは彼の表情を皺の数まで鮮明に覚えている。
泥酔した彼はオレをベッドへ押し倒して口を吸った。体重差はせいぜい数kgのはずだったが、びくともしなかった。ふだんのふわふわした態度からは信じられないくらいの力だった。抵抗すると顔を殴られ、抵抗をやめてじっと目を伏せていると首を絞められた。諦めて全身から力を脱いたオレに、
「好きなの」
と目を伏せた彼が言った。
それは本心だったと思う。自分の気持ちを表に出すのを苦手とする彼がここで剝き出しにした征服欲は、オレの生来の恋愛への軽蔑がうっかり揺らいでしまうくらいの愛嬌だった。目を白黒させるばかりのオレに彼は甘い声で、
「お利口だね」
と囁いて舌を絡ませてきた。性感がきて彼の下着に手を滑り込ませたが、瞬間に顔を殴られた。衝撃で思考がぴたりと止まる感覚。クセになるかと思った。
ついで手近にあった果物ナイフに手を伸ばした彼に、それはちがうんじゃないかと反射的に思いながら、しかしにわかに、
――お前になら殺されてもいいような気がする。
という感情が芽生え、その閃きにすべてを委ねることにした。けっきょくのところ運命は人を変えるが、人は運命を変えられないのだ。
「ねえ、ボクの心臓は黒いんだ」
しかし彼はさらにオレの予想を裏切った。
腕をめいっぱい伸ばしたかと思うと、ナイフを自らの胸央に突き刺す。噴水のように血がふきだしたのを浴びながらオレは唖然とした。止めるにはあまりに思い切りがよすぎた。痛覚などまるで感じないかのように彼は突き刺したナイフをさらに深くえぐって胸を十字に切り開くと、そこに手を差し入れて心臓を抽き出し、そしてスプラッタ・ショウは絶頂へと昇りつめた。
「あげるよ」
受け取ったそれは沸騰する熔岩のようだった。ただし奇妙にも冷え固まった後の色をしていた。
彼は無声のまま高笑いをした。心臓こそ体外に露出しているが、気管系は生きてるし発声は問題なくできるんじゃないのか。箍が外れたように彼は笑いつづけて、つられてオレの思考もピントを外していた。
そうして彼は勢いよく仰け反り、ベッドへ倒れた。
太い血管がぶちぶちと切れる音。それは日常では決して聞かれぬ音で、オレは鮮明に記憶している。ベッドを血塗れにして彼は静かに絶命した。血液の温かさは、その光景がまぎれもない事実であることをオレに伝えていた。
過呼吸でオレの頭はガンガン鳴っていた。
衝動はオレに後を追わせようとしてナイフの切っ先を胸に当てた。しかし指先はぷるぷる震えるばかりで力が入らない。皮膚が切れて血が滴ったが、心臓まで届かせるには彼がやったように勢いをつけなければならない。アタマではそう理解していても、躊躇と恐怖で両腕はびくともしなかった。
そのままどれくらいのあいだ硬直していたのかはわからないが、あるとき死んだはずの彼の目がぎょろりと剝いた。
「面白いでしょ? 不死なんだってさ、ボク」
口から黒い血を吐きながら彼はオレに覆い被さって首を絞めた。そんなことをしなくてもすぐに過呼吸のせいで失神するだろうに。意識を失う寸前、オレはそう思った。
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