LLMをリードする文学の在り方についての試行 其の一
この一大LLM時代において、文学の活路はいかにして見出されるだろうか?
文学が『人間における内面の、ナマに限りなく近い思考を昇華するもの』なのだとすれば、『LLMもまた単に思考を紙面に起こすための道具に過ぎない』という批判はさておき、それらしい単語を繋げるだけのLLMには決して出力できないものを書くにはどうすればよいだろうか。私のもとに三つの指針がある。
常に新たな書記法や文法を編み出すこと
常に新たな構造や構成を文学に見出すこと
常に新たな思想や目的のために文学を打ち出すこと
本稿ではこのうち、第一の「常に新たな書記法や文法を編み出すこと」について考えてみたい。
まず、新たな書記法や文法を編み出すこととは、いったいどういうことか。
ここで言う『書記法』とは、口語ではなく記述における文法のことで、文学が成立する場を記述に限れば、ほとんど文法と同義と言ってよい。LLMは学習において大量のデータからパターンを抽出し、このパターンこそが文法なのだが、このパターンは過去に書かれた文章から生み出されたものである。そのため、LLMが作り出す文章は、既存の文法の枠を逸脱することがない。これを逆手にとり、新たな文法を編み出すことで、LLMには生成しえない文章を書くことが可能になる。
現代の行き届いた学校教育を鑑みれば、LLMが持つ文法とは、ほとんど教科書に記載されているものと言ってよいだろう。ある文学者の個体または集団が独自に発明した文法に則って記述をおこなえば、たとえこの独自の文法の使用者が独りであったとしても、それは文学として成立する。というのは、文法とは単に、ある記述(群)におけるパターンないしルールに過ぎないからだ。そしてまた、あらかじめ文法を用意してそれを遵守した人工言語的な作品(群)を作ろうと、特に用意はせず場当たり的な自由気随な記述によって自然言語的な作品(群)を産み出そうとも一向にかまわない。ある文法規則が作品(群)から抽出されるとき、このパターンに対しての違反とは、その文法における方言以前のvariationと言えるからだ。
この試みを明確にするべく、具体的に実践を示そう。
新たな文法を発明するための動機は何でもよいが、例えば読みにくい文章の特徴として『一文が長い』『言い換えが多く発生する』『その文脈に独特の語義が与えられた語彙が使用される』などという複雑さや高コンテクスト性について課題を見出したとする。
これらの課題を解決するために、括弧や各種記号類を積極的に導入することで、語間や句間の意味論的な距離の度合いのvariationを視覚的に表現できるようにしてみる。
例文を挙げよう。次は公用文法に従った文である。
この文は『AはBである』という単純な構文ながら読点が三つ含まれるためにいくらか複雑であり、また単に一文だけ切り出したためということもあるが『カオスの力』という句はこの文脈に特異の語用であるため、この単文では文意が定まらない。そこで新たな文法として次のように記号を導入して意味的な接着と切断の表現を試みる。
[充足理由律=非合理性]の否定は{理性を否定することではなく}充足理由律が何ものにも補われなくなるやいなや現れる[理性の根本原理=無矛盾性]が内蔵している{矛盾のないものは何であれ実効的に起こりうるという}カオスの力を発見することなのである。
ここでの記号類の役割を具体的に言えば、次のようになる。
[]:語または句の単位を明示する。
=:前後の語の論理積を取ることで言い換えを吸収する。
{}:文脈中で付与される特異の語義について註釈する。
ここで発明した文法は、ちょうど『学生が記号とラインマーカーを駆使して異言語長文を読解するような仕方で、文章を書くようなもの』と言ってみてもよいかもしれない。しかし文学においては、むしろ紛れを美徳とし、人の情の微妙なるものをそこに感じる向きもある。意図の錯誤や勘違いは、日常においてもつねに存在するものだ。とはいえ、文学が完全にひらかれた、解放された場だとすれば、すべての意図がそれを文学として成立させることだろう。本稿で実践した文意の平易化は、単に意図の一つであるに過ぎない。