異国で暮らすということ
シアトルという街に住んでいる。コーヒーの街。シーフードの街。テック産業の街。坂の街。
異国の地に住むというのは不思議な経験だ。だって、何もかもが自分が知ってきた世界とは異なっていて、何もかもが新しい発見になるのだ。人が、風景が、物事の進み方が異なっていて、その街に新しく来た者は否応なくそのシステムの中に組み込まれることになる。
海外に一か月以上住むというのは、私にとって初めての経験だった。アメリカに来たのは初めてではない。それに、アメリカン・カルチャーは日本でも比較的知られている。それでも、私のこの国での物語は、飛行機を降りたその瞬間から、私が経験することになる新しい世界の色で染められていた。私に出会って一番初めにホストマザーがくれた大きなハグ、車に乗りこんで荷物を後部座席に投げるそのやり方、広いハイウェイとそこを恐れもなく高スピードで走る周りの自動車。全てが私が住んできた世界とは異なっていた。それからの毎日は、いつもいつも新しい発見と驚きの連続だった。知らないこと、見たことのないものが、たくさんあった。
もう半年も経つ。初めて来たころと比べれば、日常生活でびっくりすることは少ない。新しいと思うことも少ない。知らないことだらけだとしても、私はこの場所にしばらく住むことになっていた。だから、色々な人に聞いたり、色々と試したり、観察したり、そうすることでこの場所で心地よく過ごす方法を見つけてきた。そして、少しずつそのシステムの中に組み込まれてきた。流れるプールみたいなものだ。水の流れがあって、人の流れがある。あるいは人の流れがあって、水の流れがある。いつまでも途切れない流れだ。その中にいきなり放り込まれて、初めはまともに歩くことができない。流されるし、周りの人にぶつかるし、自分の場所を確保することもできなければ、流れに足をすくわれずに自分のペースで歩くこともできない。それでも、だんだんと慣れてきてどうすれば良いのかわかってくる。だんだん周りの人と同じように歩けるようになる。ときにはぶつかるし、転びそうになることもあるけれど、少しずつリラックスしてきて流れの一部になることができる。
その過程は私にとっては中々楽しかった。今でももちろん楽しい。だって、バスに乗っている時間が、カフェで初めての味の紅茶を飲みながら聞こえてくる会話が、ちょうど暗くなり始めた時間の帰りの景色が、これほど新鮮で、まるで物語の中にいるように感じられることなんて、同じ暮らしを続けていてどれだけあるだろうか。生きているだけで、新しいことがこれほど飛び込み続けてくることなんて、どれほどあるだろうか。もっともっと知りたい、体験したい、そう思うことが、あるだろうか。良いことばかりだったわけではない。困惑したこと、悲しい思いをしたこと、悩んだこと、それもたくさんあった。それでも、どうして困惑したのか、悲しくなったのか、悩んだのか、ここにいる人たちが何を考えているのか、それでさえ新しい発見だった。そしてその数々の発見をする中で、変わっていく自分と、変わらない自分をも、発見するのだ。
残り数か月しかないとを考えると、とても焦る。そんな短い期間じゃ知りきれないことが山ほどある。もっともっと見て、経験して、話を聞いて、知りたい。でも、きっと同時に、どれだけ長くいたとしても、「異国」である以上、全てを知ることは不可能で、その学びの過程は果てしない。だって、私はここの小学校に通わなかった。ここの中学のクラス風景を見なかった。高校の卒業パーティーも経験しなかった。ここの家庭で育てられなかったし、周りの大人たちが話すことも聞いてこなかった。そうだとしても、少しでも多く知って、この文化の中にいる人たちともっとわかり合いたい、そう思うのだ。もしもあと三年住んでも、同じように思うだろうか?それはわからない。でも、今のこの気持ちは、事実だ。
住んでいる寮は大学の一番端にあって、リビングの窓からはシアトルの街の中心から外れた部分の景色が見える。ときどき、夕食を作りに自分の部屋を出ると、ルームメイトがおらず、リビングの電気が消えていて、窓の街の光だけが輝いていることがある。何度もみた景色だ。それでも、その風景を見るたびに私はため息をもらさずにはいられない。決してシアトルの一番の眺めではないし、何気ない風景なのに、それでも美しいと感じる。その小さな光の一つひとつが、私がここで見たもの、感じたこと、ここにいる意味を表しているように思えるのだ。この風景を見られるのもあと少しだと思うと、寂しい気持ちになる。それでも良かった、と思う。この地を知れて。限られた時間だとしても、私の人生の一部になってくれたことには変わりはないから。
異国の地で暮らすのが良いことばかりだと単純に言いたくはない。それでも、人生の中の、とても素敵な時間だなと、小さな窓の外の景色を眺めながら私は考える。
*2019年3月10日のエッセイ