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鎖骨骨折記

 この夏の最大のイベントといえば、自転車から落車して左の鎖骨を骨折したことである。土曜日の夜、クラブイベントからの帰りに最寄り駅から家までの2キロない道のりの何の変哲もない場面で落車した。たぶんバランスを崩したのだと思うが、酔っ払っていたので、どういう経緯で落車したかは覚えていない。落車した瞬間はもちろん痛かった。「痛い」、「ちくしょー」などと大声を出してしまった。通行人の人に「救急車呼びますか?」などと声をかけてもらったが、「大丈夫です」と答えた。そのときは骨折したとは思ってなかった。

 日曜日、左腕を上げようとすると激痛が走る。シャンプーしたり、ドライヤーをかけたりするのが難しかった。翌日は、前日よりも痛みが緩和した。しかし、熱が出た。火曜日になって、骨折を疑う決定的な証拠、すなわち左鎖骨部分に右とは明らかに違う部分が発見される。痛みは緩和されていたので、大丈夫なのではとも思っていたが、この時点で医者に行く決意をする。

 水曜日、朝イチで近くの整形外科へ駆け込む。そこでレントゲンを撮ってもらった結果、真ん中から見事に骨折していた。骨が離れていたので、医者からは手術になる旨を告げられ、翌日、手術のできる大きな病院で診てもらうことになった。診察後、服の上から骨の乖離を防ぐための固定帯を付けられる。そのとき、一人では付けられないけど、大丈夫ですか、と看護師から訊かれた。僕は一人暮らしなので、大丈夫ではなかった。僕がその旨を伝えると、看護師は、明日の病院までこのままにしていましょう、などと言う。真夏なのに、それは無理だ、と僕は思った。二人なら大丈夫なんですよね、と僕は適当なことを言って、その場を切り抜けた。ちなみに、このときの診察料が1万3千円以上だった。その固定帯(4千円超)は仕方ないとして、保存療法費としてかなりの額を請求されていた。保存療法などしてないも同然なのに、これは暴利ではないだろうか? 固定帯は鏡を見ながらであれば、一人でも何とか装着できた。

 翌日、午前中に大きな病院に行き、医師の診察を受けると、手術前の検査することになった。そこでCTとレントゲン、血液検査、尿検査をする。

 検査後、問題なしとの診察を受け、明日の昼に手術という運びとなる。手術では、ブロック麻酔+睡眠麻酔を勧められたが、ブロック麻酔だけでお願いした。全身麻酔とは違うそうだが、やはり眠ることには不安があったからだ。

 金曜日の昼、手術室にはJポップが流れていた。狭い手術台に横になると、右腕を拘束され、体勢が固定されて、何が行われているのかわからなくなる。しかし、音は聞こえるし、身体へに衝撃は感じる。ブロック麻酔だけを選んだ最大のデメリットは、ドリルの音と衝撃である。事前に医師から聞かされていたが、確かに辛かった。身体への衝撃は相当のものだった。ただ、途中、あまり麻酔が効いてないところにドリルを当てられて、痛いという意思表示をしたが、これはブロック麻酔だけだから可能だったことであり、眠っていたらどうなっていたか怖いところだった。

 また、会話が聞こえるもの良くないことかもしれない。担当医は二人(うち一人は若い医師)だったが、不安にさせるやりとりがあった。そういう会話を聞かれたくないという思惑もあるのではないかと勘ぐった。

 手術は1時間半しないうちに無事終わり、病室に戻るのだが、その際、手術台から病室のキャスター付きのベッドへと移され、そのまま看護師が病室まで運んでくれた。これは子供の気分が味わえて爽快であった。眠っていたら、この気分は味わえなかった。

 術後は左腕の感覚が全くなくなっていた。まるでほかの人の腕のようだった。その腕も徐々に感覚が戻って来たが、それに伴い手術した箇所の痛みが出てきた。

 夜、まだ左腕が使えないときにトイレに行く必要があり、どうしようかと悩んでいて、若い女性の看護師にトイレ後、手術着の紐を結ぶのを手伝ってもらえないか、とお願いした。看護師は、引き受けてくれたが、変態に思われたかもしれない。トイレでは手術着を脱がずに、スカートを捲し上げるように用を足すように提案された。僕にはこの発想がなかった。

 消灯後も痛みはおさまらず、まるで眠りに就ける気配がなかった。別の病院でもらった痛み止めがあったのだが、看護師に飲んでいいか訊くと、医師の許可が必要とのことで飲めなかった。夜中に、点滴で血が逆流して、ナースコールを押すも、なかなか来なくて焦った。こういうときは自分からナースステーションに行けば良かったのか? 夜中、看護師に患部が痛む旨を伝えると、座薬の痛み止めがあると言われたが、座薬は入れたことがないので、躊躇した。結局、朝まで一睡もできなかった。

 術後2日目の朝、医師の診察のとき、追加の痛み止めを飲むことを許可される。それから徐々に痛みはやわらぎ、その日のうちに耐えられるほどの痛みになったと思う。その日は看護師長の人が来て、痛かったら、経口薬もあるので言ってくださいと言われたが、時すでに遅しであった。明日退院でいいのではないか、と内心思っていた。

 術後3日目は日曜日だったが、もう完全に暇になった。これまでは痛くて読書をする気も起きなかったが、もう読書と寝ること以外やることがなかった。楽しみは3食の病院食だけだった。病院食はそこそこ美味しいと思った。特に朝は普段の食事よりも豪勢であった。その3食だけで足りたのは、やはり動いてなかったからだろうか。

 病室は6人部屋であり、カーテンで仕切られているだけなので、当然声は丸聞こえだった。僕は、採血のときに、痛みで絶叫してしまい、空気を凍りつかせたように思う。看護師は若い女性が多かった。一人たぶんフィリピン人女性がいたが、その人が一番フレンドリーだった。どこかスナックの女性を思わせた。

 月曜の昼に退院となり、誰にも挨拶せずに帰宅したが、ナースステーションに行って挨拶すれば良かったかと後から気づいた。

 術後1か月以上経った今、経過は良好である。プレートが入っている感覚はあるが、痛みはほぼないし、特に動きが制限されていることもない。以下は傷の写真である。男の勲章というのは美化しすぎだろうか。 

手術跡


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