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崩れても、崩れても【ままならない身体】

骨格診断をご存知だろうか。あれがしっくり来る人は幸いである。それだけで、人生の一部が祝福されているようなものだ。「ありたい自分」のベースが、一致しているのだから、素晴らしい。

その人にとっては当たり前のことだろうけど、それは本当にラッキーなことだ。そうじゃない人、つまり生まれついた身体に馴染めない毎日は、つくづく居心地が悪い。

骨格診断にも色々と流派があるので詳しくは立ち入らないけれど、男女いずれも「どこに、どのような状態で肉がつきやすいか」という観点で分類される。その分類を踏まえて、どんな服が似合うのかを検証していくわけだが、少し傲慢なところがある。たとえば、その分析に喜べない場合を想定していない。どんな体型でも素敵だという前提に立つのは正義だけれど、個人の意志を見くびっている。

わたしは常に「メリハリのあるボディ」と分類されるのだが、これにまったく興味がない。むしろ、他人がメリハリのあるボディに心惹かれる謎に興味がある。数十年来同じ気持ちだ。コンテンポラリーダンスをするのに凹凸が邪魔だと思っていたこともあって、フラットな身体になりたかったが、一度膨らみ始めた胸は、何をしても戻らなかった。

背の低さと違って、フォルムというのは、どうにかなるんじゃないか? と諦めきれなかった。手術は……痛そうだし高額だ。着用して抑えるのにも限度があるし、健康によくない。

実はここ数年、不惑が見えてきて、いわゆる「体型の崩れ」に期待していた。肉付きが変われば、骨格診断でいうところの体格も変えられるのではないかと。聞くところによれば「今まで付いていなかったところに肉がつきやすくなる」らしい。それは好都合だ。「早く来い老後!」ぐらいに思っていた。

しかし、そうは上手くいくはずもなかった。今まで付いていなかったところ「だけ」につくのではなくて、今まで付いていなかったところ「にも」肉がつきやすくなる、ということだった。

当然と言えば当然なのだが。鏡の前でため息しか出てこない。もともと調子はずれの人生とはいえ、とてつもなく無駄な時間を過ごしてしまった気がする。何で気づかなかったんだろう…………。

===追記===

もともと太ったり痩せたりを繰り返すタイプなので、「しぼむ⇄ふくらむ」の作用には慣れている。

ただ加齢に伴う体型の変化は、ひと味ちがう。それを「崩れ」と言うべきかは躊躇する。わたしらエイジズムには反対だが、単に差別的だからではなく、これは「崩れ」ではないからだ。言うなれば「盛り」である。

くびれていたウエストに肉がつく、胸が垂れてくるけれど肉は残る。抜本的に体型が変わるのではないが、造形が変わる。

そうすると意外にも「メリハリのあるボディ」が強調される。その人の原型のようなものが顕われているとも言える。老いへの忌避というのは、剥き出しの生ものを見たくないという、安直な弱さの裏返しなのかもしれない。

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香野わたる
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