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無駄って、なんだろう。

先日、墓に供える花を買いに行った。

盆暮れ彼岸は、花が高い。

昔の習慣が残る我が家では、月命日には花を供えて、お寺さんにお参りしてもらう。
だからというわけではないが、正月だといって特別豪華な花をする必要はない、と思っている。
しかしながら、いつも地元で購入するささやかな墓花は売ってない。
松やセンリョウが入った、お正月仕様なのだ。

大阪に、卸値で購入できる大きなお花屋さんがある。
1束5~10本の単位になるが、種類も多くとにかく安い。
菊を1~2束買えば十分、いい墓花になる。
花も新鮮で綺麗。
あ、これも素敵。
こっちもかわいい。

……買いすぎた。

けっきょく予算を大幅に超えて、モリモリ山盛りになった。

墓花としてセットになったものも良いが、好きな花を選んで、自分で花束にすると楽しい。
メインの墓に一対、お地蔵さんに一対、仏壇にひとつ。
合計、5束をまとめていく。

お正月らしく、葉牡丹も入れた。
特別感はいらないと言いつつ、このキャベツみたいな姿がかわいくて、大好きなのだ。

母とふたりで、花束をつくる。
──じぃちゃんは「ようけ買うてきてぇ」とかいうやろね。
──ばぁちゃんは「ええな、ええな、豪華なんがええな」とか適当なこというよね。
──お腹すいたら、このキャベツ食べよか。
などと勝手なこと言いながら、できあがりました。

大晦日の午後、山盛りの花を持って墓参りへ行った。
正面には祖父母が眠る墓があり、脇には小さなお地蔵さんがある。
父の兄弟姉妹で、生まれてこられなかった子がいたそうだ。
祖母の願いで、祀られている。

モリモリの花を供えると、お線香をあげる場所がなくなるほどだった。
花をかき分けるようにお線香をあげて、一年の感謝と家族の健康を祈る。

信仰心があるわけではなく、伝統や儀式を重んじる気もない。
ただ、離れて暮らす祖父母に会いに行くように、折々にお墓を訪ねて、近況報告と感謝と父母兄弟の健康を願う。
そんな、日常とは少し違う時間を持つことで、心の隙間に溜まった澱を洗い流せるような気がしている。

仕事や日常生活の必要に迫られたタスクではなく、自分のための娯楽でもなく。
休日を費やし、夏なら1日、冬でも数週間で萎れてしまう花に数千円支払って、いったい、なんの得があるのだろう。

無駄無駄、時間とお金の無駄!

と、言われたりすることもある。
その度に思う。
無駄って、なんだろう?

かけたコストに対して、対価が得られないということだろうか。
つまり、無益だということ?
あるいは、故人の墓を参ることなど役に立たないというのだろうか。
つまり、無用だということ?

いずれであっても、少し論点がズレているように思う。
利益を得たいわけでも、なにかの役に立つと期待するわけでもない。
すべての人がそうであるとは言わないが、少なくとも私は、故人となった家族に会いに行くささやかな時間を、無駄と切り捨てることはできない。

コスパ・タイパと叫ばれる昨今だけど、なにが無駄なのか、ちょっと立ち止まって考えてみてもいいんじゃないかな。
そんなことを思った年越し。

あけまして、おめでとう。
2025年もよろしくお願いいたします。

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