現代の病
誰かが必死に作った作品を、冷めた目で見て批判し、それをネットという媒体を通して不特定多数に発信する。
そんなことがインターネットを見ていると日常的に行われているように感じる。
そして、そのような批判を見た人は、見る前にはその作品に熱心に感動していても、冷めてしまうことが往々にしてある。それどころか、その批判に同調、拡散してしまうことさえ珍しくない。
勿論、中には熱を持って、作品への愛を語って反論する人もいるが、そういった意見にはハイエナのように批判コメントが群がる。
このように、熱意を持っている人が批判を受けて、その熱が冷めるということはインターネットではよくあることだ。
これは創作物に限らず、趣味趣向や人間性、人種やジェンダーなど、様々な分野で日夜行われている。
さらには、この群がってお互いを貶しあうこの一連のやり取りを冷めた目で批判する。
これは客観視が重視された現代の病なのではないかと思う。
古来、人々は神や超科学的なものを信じた。それは客観性に欠いたものであったが、主観的な熱はあった。しかし現在では人文、自然を問わず科学信仰が類を見ない程盛んな時代であり、それと同時に蔓延してきたのがこの客観性を極度に正義とする風潮なのである。
自分が信じたいものを信じること、主観的に判断することそれ自体が科学の名の下、批判される時代なのだ。
ただし、科学それ自体は主観性や創造力を殺すものではない。
多くの科学者が同時に敬虔な宗教家であること、また、研究の最先端では日夜、創造的な理論が沸き起こっては消えていくことからも分かるように、科学と創造力とは両立するものなのだ。
しかし、中途半端に科学を盲信する者ほど、主観的な意見、モノを非難するのだ。
これによりこの"冷めた社会"ができてしまったのだと思う。
この風潮で危惧すべき第一の点としては、創造する力を削いでしまうことである。
成長過程にある、多感な若者が何か拙いものを産み出した時、鬼の首を取ったかのようにそれを晒しあげて群がって叩く様子が近頃は散見される。
誰しもがはじめは初心者なのだから、産みの途中でそのような稚拙な作品が出てくるのは当然なのに、彼らはそれを容認しない。
彼らは個人の感性や手作り感が滲み出るような、客観性から一番遠い存在にあるものが嫌いなのだ。
それが殆ど感じられないような高いレベルの作品でさえ非難されることもしばしばなのだ。まして彼らが成長過程の作品を容認するはずがない。そして生み出されるのは創造することそれ自体を恐れるようになる冷めた人間なのである。
また、このような社会は心の病をも産み出してしまうのではないかと危惧している。この冷めた目は、冷めた目を持つ者自身にも向けられるのだ。冷めた目は、自分の行動、言動全てを冷めた目で見るようになる。そのような状態ではテンプレートのようなその時代、大衆における著しく標準的な行動、言動しか容認できなくなる。
しかし、人はそれほど完璧ではないために時折衝動的或いは無意識にそこから逸脱した行動も取りうる。あとでそれを振り返って、冷めた目て自己批判に陥るのは当然の成り行きであろう。