見出し画像

親父の背中


暑い夏が始まりましたね、2024年。
もう、東京オリンピックから3年も経過するんですね。
どうも、私です。皆様どうお過ごしでしょうか。
夏の一大イベントが私の中で終了しました。安全に。
2024年、最高の夏と言えます。

私の中で、親父と呼べる大人

ヘッダーのお写真に映る、イケオジ。
それが私が唯一、心から親父と呼べる人です。
なぜなら私が6歳の時、父親が訳あって蒸発してます(一度目)。
その後色々ありましたが、世間で言うと母子家庭と言うカテゴリーにエントリーしました。当時の私は不思議と悲観することも無かったし、特に深く何も考えてなかったです。
幸いに私は末っ子で兄がおり、少々パワフルかつエモーショナルに、フィジカル的に育てられました。
高校生の時に、母親の体調の問題が発生し私は、児童養護施設にて生活することもしばしば。
それは、それで楽しかったです。末っ子だった私に、沢山の妹や弟が出来ましたから。
私の居た施設には、未就学児もいましたのでお世話する立場にもなりました。
当時、兄との関係は恐ろしいくらいに冷え切ってました。
鉢合わせると必ずと言っていいほど血が流れるので、生活時間をそれぞれが合わないように努力していました。今思うと、この無駄な労力を各々社会に役立つ方面に使えば良かったなと猛省しています。

私がやるべきことは終わった!と叫ぶ母

高校を卒業したその日に、私に向かって母親が車の中で泣き叫んび発した言葉です。
当時、この言葉を聞いて「この女、祝いの言葉も言わねーのかよ。」と思いました。なんとも大馬鹿野郎な発想を私はしていたのですよね。
なんだこの女?とシンプルに思ってました。
なので、高校卒業と同時に無計画に家を出ることにしました。
幸いにも大学には、言語でチートし進学が決まっていましたし、英語の弁論大会やライオンズクラブやロータリークラブの会合に参加をして皆様の前で拙いプレゼンをしたりと、何かと高校時代はそれなりに学校の勉強はできなかったけど、語学と外に出たいという気持ちだけで対外的に活動をした結果、学費をロータリークラブさんが付与してくれました。
お陰で金銭的に苦しい、大学生活を送る事は無く済みました。

勉学はともかく、当時のベストを尽くしたから良かったぞ!!と自分に言いたい。

金銭的にもだし、勉学をもっと頑張っても良かったかもしれない。
私の場合、夕方から大学だったので、日中はコンパニオンのバイトor パソコン専門店でバイト→夕方から夜まで大学→終わればまたコンパニオンのバイト→深夜から朝までバイト(クラブ店員)。
コンパニオンのバイトは拘束時間の割に単価が高いので、それに慣れきっていたところ、パソコン専門店の常連であり、コンパニオンで呼ばれる時は、毎回指名してくれていたとある経営者の方(今も仲良し)に、
「慣れは凄いし怖いぞ。一生ついて回る。そして若いうちだけ。」と同伴した時に、面と向かって教えていただきました。ありがとう、西村くん。
そして、素直に話を聞いた私は偉い。彼の言うことは、信用が出来た。
いまだに、私がなんとなく苦しいなーと勘付くと551とか新福菜館とか関西のソウルフードを送ってきてくれます。
西村くんと食べた、ノドグロの炊き込みご飯は忘れない。
昼と夜の顔を知ってくれている大人達の言うことは、真面目に聞いていました。コンパニオンの経験は、今でも良かったと思います。テーブルマナーとか男性を立てるべき場面かどうかとか、配慮とか学べたし。
パソコン専門店は、機械いじりが好きだからやめなかったし、スキルが欲しかったから辞めなかった。その選択は、のちに人生に大きなチャンスが来るので満点を与えたい。

このように、のらりくらり生活できちゃうくらいに私の周りに居た大人達に幸運にも恵まれていました。
基本的に、お客様に恵まれる人生でした。
あと、自分のポリシーで友営か先輩後輩関係の営業を徹底してた。
色恋とか、ガサツな私には向かないのが実際のところではある。

お客様は神様ではない。

お客様はお客様であって、神様ではない。
だがしかし、運命的な出会いをするのもお客様がほとんどでした。
その一人が、私が親父と呼べるヘッダーのお写真のこの方である。
私が働いていた京都にある某クラブに、映画の撮影場所が近いという理由で、VIPルームに映画のPか誰かと来店。
最初は可愛い女の子を付けたのだが、断ったとのことを店長から共有があり出動命令が出た。よは、男性のお客様のテーブルに異性が付かないのはマイナス卓となるので、盛り上がってないように見えるので、女性店員がサーブしに行くことがあった。
私もアルバイトではあったが店員なので、シャンパンサーブがてらご挨拶したところ、「君は目が素敵だから、表面的にでは無くてもっと心から笑いな。」とサラッと教えてくださった。その一言で、私の心が惹きつけられた。
褒めてから、指摘されると言う経験がなかった私には実に新しい感覚だった。

自分から、お客様に連絡先を聞いた。(お店のルール的に無問題)
また京都に来ることがあったら連絡してください!!
お分かりのように、虜になった。
連絡が来る度に、ルンルンで出勤しシャンパン片手に、飲みましょう!って笑顔で来てくれたことの嬉しさを全身全霊で表現していた。
そんな私を、面白い、人間らしくていい!と可愛がってくれた。当時の私は成人式を迎えたばかりとか、ただのクソガキである。

可愛いとか表面的な部分は一切見ず、話す言葉や身振り手振りや人に物事を伝える方法。たくさんのことを教えてくれた。
沢山叱ってもらった。でも論破してきたことはない。
異なる意見を認める大切さを重んじる人だった。
挨拶と礼儀の大切さは、親父に叩き込まれたのは間違いない。

月日は過ぎに過ぎて、2022年

お客様のような友達みたいな関係のまま、気づけば自分は30代。
仕事の事とか、近況報告はちょいちょいしていた。自分は勝手に親父と思っていたから。
そんなイケオジから、2022年の春に突然LINEが来た。
「どうか、あなたの力を貸して欲しいです。」
普段の口調とは違うメッセージに、一気に不安になった。
これは只事じゃねぇ!!と偏差値低めな私でも分かる。
赤坂にあるインターコンチネンタルホテルに、呼び出された。
ホテルに向かう道中、余命とかそう言う話?心の病気にでもなった?といろんなことを考え過ぎて動悸が止まらなかったのを覚えている。

ホテルのラウンジに座っている親父。
顔色は、良好。
オーラも健在。
何事!?!?!?
訳もわからぬまま、とりあえず会えた嬉しさでハグをした。
以前と変わらない厚みのある温かく力強いハグだ。良かった。
そう考えたことも明確に覚えている。

「まぁ、座って。話するからさ。」
この次に出てくる言葉が怖すぎて、不整脈起こしてた。
「俺さ、夢があるんだ。その夢を一緒にサポートしてくれませんか。」
良かった、本当良かった、ネガティヴじゃない、良かった。と心の底から思って、内容をろくに聞かずに「いいよ、やる。」と答えた。
親父は目をまん丸にして「内容も聞いてないのに!?」と言った。
「聞かなくたって、大人が夢持って何が悪い。やりたいことがあるんでしょ。ここで私が役にたつなら、今までの愛情深く接してくれたことに対する恩返しするチャンスでしょ。なんだってやるよ。」
私の目を真っ直ぐに鋭く見ながらこう言った。
「どんなにしんどくたって?」
「やるって言ったら、やるねん。私の心が決めた。頭で考えてない。目の前にいる人の目を見たら本気度が分かるわ。私だって、もうガキじゃない。」
親父は、右手を差し出してきた。
強くて硬い握手をした。

さらにそこから2年経過

彼の夢に対する、大きく意味のある1歩を2024年の夏に踏み出した。
走る必要はない、着実に確実に安全に。確かに歩を進めよう。
船の乗組員は揃った。火入れも完了。
あとは、いろんな波が襲ってくる。承知の上だが大変なことである。
でも、大きく変わろうとするから大変なんだ。
それだけのことをやろうとしている事を乗組員は理解している。
でもね、乗組員それぞれの豊な才能と表現力と、知識で乗り越えたり切り開いて行こ。
ね、デビッド伊藤さん。あなたは、愛情の人だから。


どでかい風穴開けよーな!!

いいなと思ったら応援しよう!