LE GARÇON ET LE HÉRON
パリの6区、オデオンの映画館で“君たちはどう生きるか”を見て来た。フランス語のタイトルは“少年とアオサギ”である。フランスで上映される外国映画には、吹替版のVF: Version Françaiseと字幕版のVO: Version Originaleがあるが、自分が見たのはVOの方で、要するに、日本語版で見れたということである。
やや小さめのホールであったが、パリの地元民で満席。一部ハイティーンもいたが、観客のほぼ全てが大人で、自分の隣りはフランス人の老夫婦だった。
日本では、事前の宣伝を一切しなかったというこの映画。実際に映画を見た人の何人かも、“まぁ、とにかく一度見てごらん。”といっていたが、確かに、“どんな映画なの?”と聞かれたら、そう答えるしかないかもしれない。
この映画で描かれている“向こう側の世界”は、実際に存在すると自分は思っている。その世界は、この世のどこかに物理的に存在するのではなく、それぞれの人の心の中、意識の底にある。その世界の在り方は、ものごとを言語化し、理屈として理解している顕在意識の世界、すなわち、我々の日常の常識とはとは全く異なる。
そんな向こう側の世界について語ろうとすれば、理屈では理解不能な、象徴性がちりばめられた物語という形式をとることに必然的になってしまい、この映画が意味不明な内容に満ちているのは、そういう理由によるものだと自分は思う。
それは、自分が20代後半の頃に傾倒していた村上春樹の作品群でも度々扱われていたテーマで、主人公は、ある時は不吉なカーブの先へと進み、ある時は壁抜けを、またある時は枯れた井戸の底に潜って、向こう側の世界に行って、何かと対峙し、こちらの世界に戻って来た。そうすることで、こちらの現実世界で生きていくうえで抱えている問題(それは、個人の問題であったり、社会の問題であったりする)の根源に立ち向かい、その解決へ向けて前進していくのである。
“少年とアオサギ”の主人公、真人もまたそうだった。様々な苦難を乗り越えてこの世に戻って来た真人に、アオサギが“おまえ、向こうでの出来事をまだ覚えてるのか?まずいなぁ。普通は忘れんだけどな。”と言う場面があったが、それもまた、あちらの世界とこちらの世界を行き来する上での一つの真実であると思う。
向こう側の世界は、全ての人にとってあるし、実際に行き来もしている。ただ、向こう側の世界のことは、こちら側に戻って来る結界を超える時に忘れる仕組みになっているので、向こう側に行っていたことも、さらには、向こう側という世界が存在するという事実自体も、普通は殆ど認識されないのである。
村上春樹の小説同様、宮崎映画でも、そんな、向こう側の世界というテーマが、何度か取り上げられてきた。その世界は、いつもトンネルの向こう、或いは、扉の向こうにあった。今回の映画が、宮崎映画の集大成だと評している人が多いようだが、自分もそう思う。あちら側の世界を描いた作品としての、大いなる傑作だと、自分は思うのである。