その「魂」に救いはあるか──『シン仮面ライダー』時評
(鑑賞を前提としたネタバレが多数含まれておりますのでご了承ください)
この映画は特異だ。それは間違いない。「仮面ライダー」としては大体において誠実だったが、特撮映画として、そしてドラマとしては極めて異質で、それこそがこの映画の評価を分けているポイントなのだろう。だが僕は、この映画の価値はそこにあるのだと主張したい。その異質さが、この映画を単なる仮面ライダーのリブートを超えた、独自の仮面ライダー論を描破した傑作にしたのだ、と。
この映画の異質さはどこにあるのか。僕はそれは「記号の構築とドラマの欠如」にあると思う。記号のために、記号のゆえに、ドラマが欠落すること。それはアニメならまだしも、実写作品というフレームにおいては瑕疵以外のなにものでもなかったはずだ。キャラクターが、自己完結的な属性に囚われて人生を背負わないということ。成長もなければ因果もない、ある種の確認作業──設定への自己言及に終始してしまうこと。それは脚本の欠陥でしかなかったはずだ。
だがそれを傑作に昇華せしめた作品が存在した。それは日本映画の中でもとりわけ古典的なモチーフを現代に復活させることで普遍性を獲得し支持を得た。その映画を撮った監督の名前は庵野秀明。タイトルは『シン・ゴジラ』だ。
岡田斗司夫が指摘したように、『シン・ゴジラ』がとった方法論とは、アニメーションのそれであった。画面の構成要素すべてを制御しきろうという欲求。それこそがアニメーションをアニメーションたらしめる。その点において『シン・ゴジラ』はアニメだった。キャラクターたちはみな何かしらの役割を背負わされた官僚として描かれ、その役割にどこまでも忠実に発言し、その人生の描写は二の次にされていた。だがそれは、むしろこの作品の物語を強化することに繋がった。記号でしかないキャラクターたちによって構築される物語。それによって浮き彫りになる剥き出しの「有事」のスタイリッシュさ。それが『シン・ゴジラ』の魅力であり、普遍的な魅力でもあった。
だが問題なのは、そうしたこの映画の魅力が、正確性と深く結びついたところにあったことである。無論その正確性とは、政治的・軍事的現実に対するものである。
だが正確性とは副次的作用であり、本質ではなかったはずだ。『ゴジラ』というコンテンツは科学批判、文明批判の文脈の中で語られることも多く、実際『シン・ゴジラ』もまた、そうした読まれ方をされた作品であったが、とはいえ、それは本質ではないのだ。庵野監督は正確性やある種の社会的文脈に拘泥する作家ではない。それは主題にはならない。少なくとも僕はそう解釈している。『エヴァ』から──いや、そのずっと前から、氏は心理描写も含めてディティールを偏愛する作家であり、そのディティールを炸裂させる対象としてアニメ(記号)的方法論を選び取った作家なのだ、と。
そのことが映画にとって、映画という商品にとって幸せなことなのか、僕には分からない。実写映画を観に映画館に足を運ぶ観客は当然のこととしてドラマを期待する。それは自然なことだ。そしてそこでアニメを見せられれば、ある種の反感が──摩擦が生まれるのもまた自然なことだ。そこでは抽象度の高い表現が選び取られ、ドラマが排除されるのだ。その二つに折り合いをつける作業は困難を極める。
『シン仮面ライダー』に登場するキャラクターたちは、基本的に記号だ。そうあるようにしか生きられない者たち。彼らは自由に、幸福追求のために生きているようでいて、その実、どこまでも「役割」に縛られている。敵のオーグたちはみな、過剰ともいえる振る舞いをしていた。まるで、プロレスの悪役のように。彼らは人生を背負わない。彼らはドラマを背負わない。そして、それと戦う人々も、また。
緑川ルリ子は、この映画において最も存在感のあるキャラクターだった。だが彼女もまた、記号であることに変わりはない。
彼女は性格の面においては抽象度の高いキャラクターであり、そして組織のエージェントでありサイボーグでもある。言ってしまえばライトノベルのヒロインのような設定だが、その要素は特に包み隠されることもなく、そのまま映画の設定として、あるいは前提として我々に突きつけられるのだ。
そんな中で、主人公本郷猛だけが1人特異だ。だがそれは、彼だけがドラマを背負う一人の人間として描かれているからではない。それは彼が、何の記号でもない、白紙の存在だったからである。
この映画はアクションシーンから始まる。二人乗りをしている大型バイクと、それを追跡するトラック。だがこれは、初代『仮面ライダー』(1971)では、一話のAパートの後半部分に用意されていたアクションだった。
初代仮面ライダーは山奥のコースでモーターレースの練習をする本郷猛のカットから始まっていた。そこではコーチである立花藤兵衛を通して本郷の人となりが描写によって説明され、その後の誘拐・改造シーンの衝撃へと繋がっていく。
だがこの映画にそのシークエンスはない。立花藤兵衛も登場しなければ、改造前の本郷の性格が描写されることはない。
その代わりに、アクション終了後、山荘において本郷は説明を受けることになる。パンフレットの一ページ目にまるまる記載されている「仮面ライダー」の設定についての説明だ。ここはSFとしての「初代仮面ライダー」解釈・拡張として優れたシーンだし、個人的にはこの映画の中で最も好きな部分の一つであるが、前提を共有していない観客が混乱したであろうことは想像に難くない。だがそうした混乱をよそに映画は更なる説明を試みる。その対象は最も意外な存在──本郷猛についての説明だった。
そう、本郷猛の人となりすら、この映画では他者の口から説明されるのだ。緑川ルリ子は「僕は……?」と聞く本郷に対して、彼の性格についての、人生についての簡易的な説明を行う。それは本来、彼がモノローグや行動で示さなければならないもののはずだ。だがここでは、それが歪んでいる。なぜか。
それはこの映画における「仮面ライダー」の魂が書き込まれる存在だったからだと僕は解釈している。まっさらな状態で映画に登場した「人物」に、他のキャラクターたちは魂のコーディングを試みるのだ。それは「バッタ型改造人間」のコードであり、「本郷猛」のコードであり、そして「ヒーロー」のコードでもあるのだ。
彼のヒーロー性もまた、書き込まれたものであった。そう「クモオーグ」に書き込まれたものだ。露骨な「悪役」として振る舞う彼によって、本郷は逆説的にヒーローとしての自覚を手に入れる。
この導入部における一連の流れの中で、本郷以外のキャラクターは脚本上の教師として振る舞う。彼らの口調が説明的なのは当然のことだ。なにせ彼らはコーディングの真っ最中であり、それを間違えれば「仮面ライダー」は、本郷猛という人間は、存在し得ないからだ。
そうして、本郷猛は仮面ライダーとしての自覚に目覚める。意図された通りに。『シン・仮面ライダー』の主人公として。
そのコードといかにして向き合うか。「仮面ライダー」といかにして向き合うか。それがこの映画の主題となる。
仮面ライダーはこの映画において暴力性の象徴として描かれる。彼が拳を振るえば敵の肉体からは血が飛び散り、ライダーキックを放てば肉体が破壊される。それは映像としては爽快なものであるといえるが、ヒーローとしては陰惨に過ぎ、そのことが本郷の苦悩へと繋がっていく。
だが、その苦悩は物語が進むにつれて緩和されていくことになる。それは彼が、明快に殺傷を拒否するようになったからだ。
ハチオーグ戦から、本郷は敵を倒すことを拒絶する。戦闘は「無力化」に主眼が置かれるようになり、ある程度戦闘が落ち着くと、場面は説得のシークエンスに移行する。無論、この映画に登場するキャラクターたちはみな記号であるため、その説得が功を奏することはほとんどないのだが(記号は変化を許容しない)、それにもかかわらず本郷は徐々に変化していく。だがそれは、変化というよりもむしろ「回帰」と言うべきものだったのかもしれない。
本郷の性格や人生──コーディングされたものではない、彼の本質は徐々に、遡及的な形で浮き彫りになっていく。そして「優しさ」を許容しない暴力そのものであるバッタオーグ・システムとその性質の間には相剋が生まれることになる。
父親の死。力を持たなかったがゆえに死んだ父の存在。だが彼は、父を拒絶しなかった。その精神性を継承し、拡張しようと試みた。そしてそれは彼の優しさの根拠であり「仮面ライダー」を単なる改造人間からヒーローへと昇華させる要素でもあるのだ。
コードそれ自体を変容させる力を持った、希薄な、しかし確かな存在感をもった本郷猛自身の魂。それは次第にこの映画における「仮面ライダー」を変えていく。
相剋の中で磨かれ、産まれ落ちようとしているヒーロー。しかしそれは本郷のためのものではなかった。彼は「仮面ライダーになろうとするもの」であり、今なおそれを完成させようと試みる1人の人間だった。
そうした彼との対比として、一文字隼人はある。
彼は自由を愛するキャラクターとして描かれる。それは先述したような記号性が強く表れたキャラ造形だが、その記号は何の記号かと言えば「仮面ライダー」の記号なのである。初代仮面ライダーを規定するもの──それは自由への志向だ。ショッカーのくびきから解き放たれた彼は仮面ライダーとして振る舞う。そして本郷の作り出したその名を名乗ることを躊躇しない。そう生きることが自然だとでも言うように。
本郷は一文字とともに、ショッカーライダー(大量発生型相変異バッタオーグ)を蹴散らしたのち、チョウオーグと戦う。だがそれは抹殺を目的としたものではなかった。彼はどこまでも殺傷を拒絶し、救う道を選んだ。ここにおいてバッタオーグ・システムはその本質を失い、本郷本来の魂に統合される。
書き込まれたコードを変容させ、チョウオーグを救ったことで本郷は「仮面ライダー」として、自由のために戦うヒーローとして目覚めた。だがそれは、肉体の消滅と引き換えでもあった。彼は泡となって溶けて消える。そうして、後には一文字だけが残される。
本郷に視点を移した時、この映画はテーマの面において仮面ライダーの映画ではなかったといえる。これは1人の男が仮面ライダーになろうとする映画であり、そしてそれは成し遂げられた。彼は最後の最後で、仮面ライダーになったのだ。
そしてその魂は一文字に受け継がれる。これもまた一種のコーディングだが、そのことを一文字は受け入れている。そこに相剋はない。
コードとしての──こう言ってよければ「文化的遺伝子」としての仮面ライダー。その完成と継承を描いた映画として、この作品はかつてない仮面ライダー論の地平を切り開いている。