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日韓併合時代のミス・コンクールあるいは「美」という名の自己主張~美しさは誰のために。野に咲いてこそ花

女性解放運動とミスコン

 併合時代の朝鮮では、各社主催の美人コンテストの類もたびたび行われていた。
 今でこそミスコンなどというとフェミニズム女史たちの恰好の攻撃の的になるが、この時期の半島のミスコンの審査員には、なんと金一葉や金明淳といった女性解放運動の闘士が名をつらねていた。つまり、彼女たちは、美人コンテストを女性の自立の象徴と捉えていたのである。

大阪毎日新聞社主催のミス朝鮮選抜大会の内容を伝える記事。朝鮮人と在朝の日本人の二部門に分かれるようだ。朝鮮人代表は京城の奎明淑嬢(18)。日本人代表は仁川に住む菊池時子嬢(20)。(「大阪朝日新聞・朝鮮版」1931年10月22日)


 思えば、李朝時代以前、女性の美しさは、少女時代は生家、嫁いでは婚家、あるいは寵を傾ける男のためにあるものであって、女性本人のものではなかった。当時の女性は、上流の出身であればあるほど、生涯を生家と婚家の屋敷の囲いの中で暮らし、自由恋愛などむろんままならなかったのである。
 妓生のように美しさを売る商売もあったが、彼女らもしょせんは造花であって、名もなくとも可憐に咲く野の花ではありえなかった。妓生にとって最大の出世は王室の男の寵を得て妾に取りたてられることであろう。それはそのまま、彼女の生家と一族の栄達にもつながった。だから彼女たちは贅をつくして着飾り、化粧に金にかけた。すべては「家」のためなのである。中には貢女(공녀/コンニョ)として支那に送られ、後宮に入り皇后や妃になる者もいた。たとえば、元朝最後の皇帝・順帝の皇后・奇氏や明の永楽帝の寵妃となった権氏がそうである。支那の皇帝の妾ともなれば、その生家は朝鮮王家さえ一目も二目も置かざるをえないほどの栄華が保証された。
 もっともそのような出世はごくごくまれなケースであり、多くの場合、貢女といえば、宗主国への性の献上品を意味しかなく、娘が貢女候補となった家の民は悲嘆にくれるばかりであった。朝鮮の悪因習である早婚が生まれるきっかけのひとつに、この貢女制度があったのである。幼女のうちに嫁がせ貢女供出から逃れようというわけだ。

一般の貢女のイメージ。どこかで見た図ではないか。「慰安婦強制連行」はこれをトレースしたもの。

 また支那歴代王朝の貢女選出に関する要求も厳しく、王族、両班の娘で美女、処女を絶対の条件とした。元の支配下にあった高麗王朝は、結婚都監、処女寡婦推考別館という役所を置き、国中の婚姻をやめさせて貢女の選別にあたらせている。それでも「美人でない」「処女でない」を理由に突き返されてくる貢女があとを絶たず、そのたびに高麗王を青ざめさせた。天下の武闘王朝モンゴル帝国のご機嫌を損ねては、王さまの首がいくつあっても足りないからである。結局、貢女たちの美貌も王家の存続のためにだけ必要だったということになる。
 併合時代のミスコンは、まさにそういった暗い過去のくびきから離れ、女性が女性としての美しさと若さを誇り、美と健康でもって自己の存在を主張する舞台の役目を果たしていたのである、といえば、大袈裟に過ぎるだろうか。

電報通信社(現・電通)主催「全国代表美人コンテスト」の一面広告。まわりにあるのは協賛企業の広告か。かなり大々的な催し物だったようだ。(「朝鮮日報」1929年10月26日)
雑誌『モダン日本』のミス朝鮮懸賞当選発表。ミス朝鮮に輝いたのは朴洞實嬢。なるほど、清楚な感じの朝鮮美人である。(『モダン日本』1940年11月号)


「日本代表美人画報」。日本全国の美人を集めたポスター。朝鮮代表として崔承喜が(2段目、左から4人目)。詳細は不明だが、雑誌の付録と思われる。島田髪もあれば、モダンガールも。

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但馬オサム
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