おばあちゃんの歩み スローライフ
<おばあちゃんの歩み スローライフ>
ヒマラヤに世界で最も美しい谷と称されたランタン谷と呼ばれるエリアがある。ネパール国内の中でも人気のトレッキングエリアであり、ヒマラヤ山脈の中でも最大規模の原生林が残っている。
そのランタン谷を旅しているときの私は漠然とこの旅を終えたら田舎で暮らしていくために畑のことや木工のことを勉強しようと考えていた。つまり私にとって山を旅する暮らしに一区切りをつける旅だった。
そのランタン谷の原生林を歩くコースはこの谷に住む山岳民族たちにとっての生活道だった。そのため海外から来たとハイカーはもちろんのこと現地民が多く歩く。
私は海外ハイカーグループの群れから離れるようにして歩き、原生林の厳かさを堪能していた。道には日本の一里塚のようなスポットがあり、タルチョがなびく石積みの休憩所で重たいバックをおろし、ロッジで入れてもらったチャイを飲んで休んでいた。私はこうやっていつも原生林の静けさの中でゆっくり過ごす。
すると、ひとりの初老のおじさんがスタスタと静けさの中から現れた。服装や顔立ち、そして荷物の少なさからすぐに現地の人だと分かった。杖一本で軽快に歩く姿を見るとヒマラヤに住む山岳民族はいくつになっても健康そのものだ。
彼に軽く会釈し、ネパール語で挨拶を交わす。どうやら彼は英語が話せないようだったので、挨拶だけで私たちは原生林の静けさの中に戻った。
しばらくして、彼が先に立ち上がり、私に軽く会釈すると彼は道の先へと歩き始めた。さらにしばらく時間が経ってから私もまた立ち上がり、気合を入れてバックパックを背負い、彼の後を追うように歩き始めた。そのときだった。
今まで静けさの中にあった原生林のなかで突如として鳥や虫が騒ぎ始めたのだ。その声は明らかに警戒の音だった。私はびっくりすると同時に周りを見渡した。そこには私しかいなかった。私はそれを確認すると愕然とした。ここでは私は異物に他ならなかったことを。
ランタン谷に訪れるまで私は10年近く日本やアメリカの原生林の中を旅していた。働くときは山小屋や農業の現場だった。私はずっと自然の中で暮らしていたから、私は勝手に都会に住む自然から大きく逸脱した人間ではなく、自然に近い存在だと思っていたが、それは違ったのだ。
そして何よりもあの初老の現地民は静けさの中から現れ、静けさの中に消えていった。私と彼の間には雲泥の差があった。その差がどれくらいあるのか全く分からないばかりか、埋められるものなのかも分からなかった。
しかし私はこの出来事を機に、決断した。私も自然と調和した山岳民族のような存在になりたいと。そしてまた原生林の中に還っていきたいと。この出来事の後にたどりついたロッジで木嶋利夫先生に出逢うこととなる。それはヒマラヤの神様からのギフトに違いない。
あの出来事から10年近く経った。私は自然農をし、木工をし、そしてまた原生林を旅し始めた。その自然と深く関わる中で観察の重要性に気がついていた。どう観察するかは、どう世界を見るかであり、どう地球と関わるかであるということ。
私はときどき東京や名古屋、大阪など大都市部に出かけては彼ら現代人のスピードがあまりにも早いことにびっくりした。私も都会出身だから、このスピードの中で暮らしていたはずだ。しかし私は誰よりも遅く歩いていた。誰もがみな歩く方の前か、スマホしか見ていなかった。私だけが足元の雑草に身をかがめ、空に向かって伸びる木に手を添えていた。
島根の山奥の集落に帰ってくると、私の歩くスピードはおばあちゃんと同じスピードだということが分かった。おばあちゃんが腰を少し曲げて、両手を腰の上に置いて、ゆっくりじっくり歩く姿を見たことがあるだろう。あのスピードこそ私が観察するときのスピードだった。
私はこのスピードでいつも田畑を観察してから野良仕事に励んでいた。山を観察してから多くの獣たちと出会い別れた。そしていつも足元の小宇宙に気づき、循環する地球を観察していた。私の感じている世界はおばあちゃんの歩みでしか感じられないものだった。
人間は移動速度が速くなると脳が興奮するだけで、細部が見えなくなり、音もかき消されて聴こえなくなる。いつも車や電車で通っている道を自転車で、そして歩いてみると目、耳、鼻、皮膚の感覚は閉鎖された自動車などのスピードによる遮断から解放され、より繊細な情報を感じるようになる。実際に試してみてほしい。もちろん逆のことも。おそらく見える世界がまるっきり違うはずだ。
これは一般的に呼吸と関連していると考えられている。人間は自分の足で歩こうが自動車に乗ろうが、スピードが速くなると自然と呼吸が浅く速くなる。つまり興奮状態となる。しかし、ゆっくりじっくり歩こうとすれば自然と呼吸は深く遅くなる。
深い呼吸は精神状態を安定させることはよく知られているが、それと同時に身体状態も安定させる。精神と身体が深く結びついているから、興奮状態から安静状態へと切り替わる。興奮状態では人間は五感が鈍くなり、攻撃的になる。しかし安静状態なら五感は鋭くなり、平和的になる。だから私は山奥で遭難したり、クマと遭遇したときはまず深く呼吸することを選ぶ。
スローライフやスローフードという言葉の本当の意味は「あえて時間をかける」ことにある。何かと時間がかからないことが効率的で省エネルギーだという神話が現代人の中でもてはやされるが、本当にそうだろうか?「時短」や「コスパ」が本当に豊かさを育んでいるのだろうか?
「手作り」や「クラフト」という言葉が地方ばかりか都市部にまで求められていることを考えれば、人間味はスローの中に宿り、そしてその中で育まれることが分かるだろう。これからの社会において機械化やAI産業の発展が私たちの暮らしのなかで当たり前になってくる。その暮らしの中で人間味を育むためには、スピードはひとつの物差しとなるだろう。
私が今語っているスローや速さとはあくまでも相対的なものだ。どのくらいのスピードがスローで、速いのかという尺度はない。私が「おばあちゃんの歩み」と表現しているスピードをより具体的に説明しようとすれば、「自分が深く呼吸ができるスピードで、心地よく歩けるスピード」である。つまり、そのスピードを知っているのはあなた自身の身体なのである。
自分が気持ちよく、歩けるスピードで、歩ける距離があなたの縄張りとなる。それは年齢とともに変わっていくし、体力が技術、経験によって変わってくる。その日の体調や気分によっても変わってくるだろう。
スローライフやスローフードという言葉はそのスピードからあまりにもかけ離れた速すぎるスピードに対して相対的に表現した言葉に過ぎない。あくまでも人間的な規模と容量、人間味のあるサイズは身体が知っているのだ。
私たちの人生は陸上競争をしているわけでもないし、オリンピックに出場しているわけでもない。私たちの暮らしの中で必要としているのは人間味であり、自分らしさである。それらが宿るスピード、それらが育まれるスピードが必ずある。
たとえそれが現代的なスピードからあまりに遅いとしても心配する必要はない。ヒマラヤで私は確かに誰よりも遅く歩いていたが、それでも前に進んでいた。誰よりも鳥の声を聴き、虫の声を聴いた。多くの獣たちと出会い、別れた。
原生林の抜けた先のロッジで他のハイカーと話をしたとき、誰もがその声にその存在に気がついていなかった。彼らは目的に向かって効率的に歩いてしまっていたから、道の途上にある豊かさには気づけなかったのだ。
私たちの人生は暮らしは決して目的に早く効率的にたどり着くために営むものではない。ペンキ画家ショーゲンさんが村人から言われたように「もし、そうならば生まれてすぐに死んでしまうことが一番効率的」だろう。
まずはおばあちゃんの歩みから始めてもらいたい。そこから自分らしく暮らせるスピードに少しずつ合わせていったらいい。