初めての生「うちのバカ息子が申し訳ありません」を聞いた感想

 本当に言うんだ。呆気に取られたあと、少し嬉しかった。初めて生で聞けたことが。ずっとテレビでしか聴いたことがなかった宇多田ヒカルの曲をライブに行って初めて生で聴けたときの、その興奮に近かったかもしれない。大袈裟に言うと。僕が「生うち」を耳にするに至った経緯については一つ前のノートを参照して頂きたい。
ちなみに「生うち」とは生「うちのバカ息子が申し訳ありません」の略である。さも皆さんご存知の雰囲気で申し上げたことは申し訳ない。

 犯人は2人おり、共にまだまだ親が出てくるのにも仕方がないような年齢である。その両方の父親がまるで示し合わせたかのように、こう口にしたのである。「うちのバカ息子が申し訳ありません。」ドラマや小説でしか見聞きすることのない言葉だと思っていたものが、よもや僕自身に向けて放たれる日が来ようとは。人生には何が起こるか分からない。大袈裟か。

 しかしながら、こんなことを言われてこちらはなんて返すのが良いのだろう。「本当だよ!こんちきしょう!」と思ってはいたものの流石に言えない。「いえいえ、そんなことないですよ」は僕が言うのはおかしいしこの場面では絶対に相応しくないやろう。これに対する返答を僕は持ち合わせていなかった。それもそのはず。読書家な僕だが、うち生がナチュラルに登場しうるようなヒューマンドラマ系小説には興味がない。ザッピングでもするかのように書店で小説を手に取ってちょっと読んで棚に戻してを繰り返すことで本を選ぶ僕にとっては、うち生は僕が好きじゃないタイプの小説であることを示す明確なサインである。ただ実際にうち生を前にした今となって思えば、ケーススタディの一環としてうち生系の小説も履修しておけば良かったと雀の涙程度の後悔を舐っていた。
 さあ、多少の後悔を抱くに至るまでの思考を初めてのうち生を聞いた直後0.5秒のうちに繰り広げた僕は「あ、いえ、まあ。はい。」となんとも歯切れの悪い返答をしてしまった。毅然とした態度の被害者であるべく固めた決心には見合わないスタートを切ることとなったのだ。

 初めて経験するものごとにはやはり学びが多く含まれているものである。うち生系の物語に登場しうるシチュエーションはさほど日常の生活から遠いところにあるものではないのだろう。うち生が僕の人生にすら登場したのだから。学びがあるかもしれない、という動機こそが本をより面白くする。これは僕の人生に断片的にでも発生する出来事なのかもしれない、と想定することでうち生系、即ちヒューマンドラマ系の物語小説も楽しめるのかもしれない。

 まさかうち生によって読書の幅が広がるきっかけになるとは。僕の想像力、感受性は従来の読書によって相当に鍛えられていそうだ。

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