所有しないことが当たり前の世の中で、表現と継承のためにログハウスを建てた話
シェアリングエコノミー絶盛期にログハウスを購入した理由
私は東京から長野に移住をして暮らしている。移住をした頃は、シェアリングエコノミー推進派が絶好調な時期で、多くのシェアリングエコノミー型の住まいや事業所が軒並み立ち上がっていた。今でもまだ増え続けている印象である。そんな中、私は長野の飯綱高原にログハウスを新築で建てたのだ。背景には実に沢山の考えがあるが、根底にあるのが所有への責任である。音楽や車、家などシェアすることが選択肢として当たり前になっている中、私が思う移住と所有に関する哲学について述べていきたい。シェアをするだけでなく、所有することも選択肢の一つとして取り入れる際の参考になればと思う。
所有しないことが当たり前の世の中
今世紀のテックバブルの火付け役となったのは、インターネット通信の加速とオンライン決済の普及だったのではないかと思う。私は長年スタートアップ業界に関与していて、初期のころ私はロンドンに住んでいた。その頃アメリカ西海岸なども含め、主流だったのはソフトウェアのフロッピーディスクを購入しインストールすることであった。それが必要な時にブラウザーを使って、必要なだけサービスを使える世の中に変わっていったことを目の当たりにしたことを覚えている。
こういった概念が生活のさまざまな箇所に浸透していき、利便性や効率性を重視することで人々は「所有する」ことに、興味が薄くなってきてしまったように見える。いつのまにか、音楽やビデオを所有しなくなったのと同じく、車や家も、所有する必要が昔ほどがなくなってきた。人々はすこしずつ時代の流れによって所有することを自然と放棄してしまってきたようだ。
シェアリングが増えても「モノ」の製造量は増え続けている
ここで考えて欲しいのが、シェアリングが増えたことで、本当に人々が理想とした世界になったのかということである。シェアリングエコノミーという言葉が使われはじめて10年ぐらいたっているのだが、有効活用されていない資産を共同で保有する、または必要に応じて利用することで消費エネルギーが減る、という概念がかなり変化した様に思える。当初のシェアリングエコノミーの定義通りに経済が発展すれば、浪費が減り、遊休資産が減るはずであるし、その事を夢見た人々は大勢いたはずだ。ところがどうだろう。世界的に燃料の消費もさまざまな「モノ」の製造量も毎年増え続けている。ということは、シェアリングエコノミーがもたらした最大の結果は「所有権の移動」に過ぎないのではないだろうか?
(画像:favornomics.com)
表現するという権利
写真の家はフランスのノルマンディーにあり、1ヶ月休暇をとったこともある。この家は、私たちが家をもつきっかけを与えてくれた建物である。築年は不明だが軽く100年は超えているであろう。家畜とともに暮らすように建てられ、決して高級な作りではないし、水道や電気などない時代に建てられた家なので、色々ムダがあるとも言える。この地域は200年ほど、大した開発は進んでおらず長年何も変わっていないのだが、その分代々その土地で暮らしていた人々の毎日の一部を体験できるのである。そう言った感覚は、実際住んでみないと、本で読んだり写真を見ているだけでは感じることはできない。感じることができないということは建物に込められたストーリー、思想なども継承もできないということである。
Responsible Ownership - 所有するという責任
ここまで述べてきたとおり、所有権の移動や、文化の継承を含めて、住先の住居のことを考えていると「人に貸す」目的の資産が増え続ける中、「所有する責任」を真剣に捉えた暮らし方を選びたくなり、私は新築ログハウスを所有することに至った。
「所有する 」ということは、建物を購入することになる。ただそれは「不動産として所有する」こと以上に、その土地、その建築物にまつわるストーリー、技術、思想、デザインなどもすべて所有し継承することになる。
「責任とは」要するに、不動産価値が減価償却の公式によってゼロになっても、価値を残すためにその建物にコミットをしたことになると考えている。骨董品やクラシックカーのコレクターは芸術品や美しいフォルムを、未来のために責任を持って一時預かっているだけ、と考える人が多いと聞く。いわば彼らは未来への投資をしているわけだ。
(画像:o-uccino.com)
私たちの新築住居に込めたビジョンは、それに似ているところがある。建てた家はハンドカットログハウスで、今は決して流行ってはいないし、そうそう売却もできそうにない家であるが、貴重な資源を目一杯活かして建てたストーリー、技術、思想、デザインなどの意味を100年でも200年でも残したいと思っている。所有することで金銭的なリスクを取り、しっかり維持して、家が熟成していくのを見守り継承していきたいのだ。
もちろん「所有する」ことは、多くの責任がついてくる。私があえて所有することを選ぶのは、責任を大企業に集約させ、利益性の高いものだけが残る様に、削がれてしまった資産ばかりが残る世界に対するアンチテーゼとも考えている。所有をすると義務も発生するが、権利も付随する。所有することが当たり前でなくなりつつある社会の中、私たちは未来に何を残していくのだろうか?所有することで得られる表現する権利やそれを継承していくという生き方も、一つの選択肢としてまだまだ残っていくのかもしれない。