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「平壌へ至る道 潜入編」(9)
「オッパ、まだ寝てる?」
チャンスクの囁き声で、相慶は目を覚ました。いつの間にか脇の下に女が潜り込んでいた。
そのぬくもりに満ちた貴重な体勢を失わないようにしながら、男は腕を伸ばして金時計を掴んだ。蛍光塗料は二時を示している。部屋に充満した暗黒の深さや、微かな川の音以外何も聞こえてこない静寂が、午後二時ではなく午前二時であることを教えている。
十時間以上、熟睡していたのか。
「私のフルネーム、知ってしまったね」
チャンスクの無声音による囁きに、相慶は覚醒した。自分の腕の中で女が身を起こすのを感じた。
「知ってしまったな。何で言いたくなかった?」
「聞きたいの?」
顔を近づけてきた女の息遣いが中耳をくすぐる。男は強い肉欲を下腹部に覚え、それを意識外に置くように早口で答えた。聞きたい。
「本当に?」
相慶には分かっていた。彼女が心底では自分の話を誰かに聞いて貰いたがっていることを。それをずっとずっとずっと渇望しながら、迂闊な身上話が体制批判と曲解され密告される恐れが常に付きまとうこの国にあって、その機会も相手も今日まで持てなかったことを。
「辛い記憶は」
男は呟いた。人に話すことで、薄れることもある。
チャンスクは相慶の胸に頬を置いた。
「私のハラボジ、祖父は朝鮮戦争に出兵し、連合国側に捕まって捕虜収容所で二年過ごし、このまま韓国に残れという誘いを固辞して故郷へと戻った。帰国後は核心階層の身分が待っていたし、その息子となったアボジの人生は最初から約束されていたようなものよ。平壌に住み、党幹部の娘を娶り、望んでいた男児には恵まれなかったけど、姉と私の二人姉妹は幼いころからピアノも習わせてもらえた。状況が急転直下したのは、高等中学二年生の頃」
チャンスクはそして暫し沈黙し、相慶は微かに震える彼女の肩に左腕を回した。
「無理はするな」
チャンスクは相慶の胸に顔をうずめ、一度だけ首を横に振った。「無理しないと話せないもの」
相慶はチャンスクの肩を抱く左手に力を込めた。「君のペースで話せばいい」
彼女は頷いた。有難う。
「ハラボジは捕虜となりながら非転向を通した国家の英雄であったけれど、大きな秘密も抱えていた。捕虜収容所でアメリカ兵からジャズを教えられたハラボジは、帰国後もそのテープを就寝前にそっと聴き続け、その秘匿された嗜好はアボジにも伝播した。姉も私も、習う音楽は革命歌ばかりだったけど、家族だけで過ごす夜、ときおり即興でジャズを弾かされ、アボジはそれを楽しんだものよ」
気丈なチャンスクの声が震え始めた。
「誰が私たちを売ったかは知らない。ある夜、安全部だか保衛部だかの連中がなだれ込んできた。テープも見つかり、戦争英雄の子孫は一夜にして走資派のドブネズミとなった」
両親は一度きりの裁判後、銃殺刑に処せられた、と収容所で聞かされた。姉の行く末は今も不明。
「私は容姿に優れている、という理由で、まずは党幹部の慰み物になり、四年、五年?もう覚えてもいないし、そんな月日を数えることもしなかったけれど、その後元山のジャンマダンの娼館に売られた。生きる場所はそこしかなかった」
声に湿り気が帯びてくる。相慶は彼女の髪を撫でた。
「辺という苗字を、その時から私は捨てた。市場ではいくらでも戸籍は買えたし、辺の苗字以外の身分なら何でも良かった。敵対階層であってもね。その行為が残された者にどれだけ影を落とすか知っていながらジャズを聴き続けたハラボジと、それを受け継いだアボジの苗字だけは、名乗りたくなかった。もちろん彼らが何も悪くないことは理屈では分かっているわよ。でも、ダメなの。誰かを悪者にしておかないと、私を支えるものがなくなってしまう。昌淑という名はオモニが付けてくれたものだから、それは捨てられなかった」
闇に染められた部屋の、薄いガラス窓の向こうには、やはり同じ色の空しか見えない。そして、川のせせらぎ。
「ねえ、チャンスク」相慶は囁いた。
君の人生は、何かを、誰かを悪者に仕立てあげなければならないほどに苛烈なものだったと思う。アボジを憎み、ハラボジを憎むことで、君は人生の記憶に倒されそうな自分を支えてきたのだろう。
「でもね、アボジやハラボジには、君が言うように負うべき罪はない。罪を負うべきは、人民が好きな音楽を自宅で過ごす時にさえ聞けない社会を作り上げた奴らだ」
「そんなこと、あんたに言われるまでもない」
くぐもった声で反論する彼女の肩を、男は一層強く抱きしめた。赦してやれ。
「アボジのことも、ハラボジのことも赦してやれ。そうすれば、チャンスクはチャンスク自身をも赦してやれる。どこにも行けないような感情は、今ここで、きれいさっぱり捨ててしまえ」
彼女の顔に触れていた男の胸にも、湿り気が滲み始めた。
「ピョン・チャンスク。ええ名前やないか」
女が顔を上げた。ありがとう。
そして涙で崩れた顔に、何とか笑顔を貼り付けた。
「保衛部の奴ら、少しはマトモに仕事してるんだね。自分の本名を聞いたのは久しぶり」
相慶はチャンスクの背中をとんとんと優しく叩き続け、彼女はもう一度眠りに陥り、間もなく男もそれに続いた。
次に目が覚めた時、窓からは薄日が差し込んでいた。朝の六時だった。
相慶は部屋の扉を開けた。台所には既に金一峰の姿があった。
「すいません、すっかり眠ってしまいまして」
「構わん。取れる時に充分な睡眠を取るのが優れた兵士だ」
チャンスクも既に起きていて、食事の準備に入っている。老人は若者に向き直った。
「今日はどうするね?」
工作員は粗末なテーブルを挟んで、老人の前に腰を下ろした。
「平壌の町を視察しようかと。男女二人組は警戒されているでしょうから、さしあたり今日のところは一人で」
金老人は満足気に頷いた。
「わしの配給チケットを使って七時のバスに乗れば良い。どうせわしの甥っ子の来訪なぞ、もう町中の者が知っているだろうからな」
旅の相棒を老人宅に残したまま、相慶はひとりバス停の列に並んだ。
誰もがこの異邦人を、最大限の慎重さをもって盗み見てくる。金一峰の推測通り、この異邦人の正体を周囲は既に掌握しているようだった。ジャケットには金老人から拝借した「満州革命烈士の子孫」であることを示すバッジが輝き、左手首からは金時計が見え隠れしている若者に対して、朴尚民言うところの「核心階層の二軍」である他の十五人の乗客は、十五様の思惑をそれぞれ巡らせ、それぞれの結論に達した。
相慶から目を背けながら、やって来たバスに無言のまま乗り込む。
何も見えない、何も聞こえない。
平壌市街へと続く「忠誠橋」のたもとで確かに検問は敷かれていたが、地元の通勤バスは難なく通過となった。それも金老人の見立て通りだった。
「保衛部の連中は、あくまでも平壌に逃げた元山の政治犯を追うべく、演習を利用した検問を行うに過ぎん。徹底的にやれば騒ぎになるし、騒ぎになれば平壌の党幹部に噂が流れる。それは奴らが何よりも避けたいことだ」
忠誠橋を渡り、そのまま首都の目抜き通りの一つである千里馬通りへと入る。駅前大通との十字路を右折してしばらく走った所で、相慶はバスを降りた。
民族高校の修学旅行以来、十年ぶりの平壌だった。
さすがに武者震いが膝裏に走った。