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「伊豆海村後日譚」(3)

 コンビニ店主は若者を従え、二階への階段を上る。何年も人の出入りがなかったことを示す饐えた臭いが漂っている。店主が廊下のスイッチを押し、奇跡のように明かりのついた蛍光灯に照らされたビニールシート敷きの床は、うっすらと埃に覆われ、前を歩く店主の足跡が新たなシートの模様のように浮かび上がった。
 廊下を挟んで、ベニヤ板の壁にドアが二つずつ並んでいた。
「間取りは全部同じだ。六畳一間。こっちの二部屋は南向きで、こっちは北向きだ。南向きの方でいいな?」
「結構です」
「床はさすがに雑巾掛けしなきゃならんな。ちょっと待ってろ」
 老人は一階へと戻っていった。一人残された船戸は部屋のドアノブを回し、鍵がかかっていないドアを押し開け、部屋の中に入った。江戸間の六畳。名古屋の恵の部屋と同じ大きさだった。
 横に歩けばちょうど三歩、縦に歩けば四歩、畳の横幅と自分の歩幅が一致することをあの時、二十四年生きてきて初めて気付いた。それが妙におかしくて、ろくに家具もない部屋をいつまでもぐるぐるぐるぐる周回していた。
 船戸は部屋の壁に寄りかかり、ずるずると床に沈んでいった。店主が雑巾を手に二階に上がってくる。「どうした?」
「ちょっと目眩がして。でも大丈夫です」
 店主が畳を拭いている間、彼は眼を閉じて息を吐き、瞼の裏で展開するあの時の情景が再び骨組を失い、ヘドロ状の無機物となって体内に溶けていくのを待った。体内に溶けた以上、それは自分の中にいつまでも留まることになるが、受け入れる以外に術はない。因果は呑み込み、自分で消化し、そして望むべくは、いつか自分で排泄するしかない。
「さて、と」店主の声が、若者を深い思索の淵から現実世界へと戻す。助かった、と彼は感じる。
「布団には少なくとも二年は触ってない。広げるのも怖いぐらいだ。自分の寝袋はあるか?」
「ええ。荷物の中に」
「それで眠ってくれるなら、宿賃は二ドル値引くが」
 若者は首を縦に振った。
「台所はない。トイレは廊下の奥。シャワー室はその隣。お湯タンクは今からスイッチを入れれば、夕方には二、三分ほど湯も出るだろう。しかしウチのソーラーパネルは拾いものだ。水になったら諦めてくれ。嫌なら他の町でもう少しマシな宿を探すことだ」
「旦那さん、俺は何も不満はないですよ」
「何かあれば俺は下の店にいるから呼んでくれ。名前は三留だ、コンビニの看板を見てりゃ分かるだろうが」
「宜しくお願いします。三留さん」
「君のことは船戸くんとでも呼べばいいのか?」
「何だって構いません」
「そうか、じゃあ船戸くん。気を悪くしないで聞いてもらいたいんだけどな、君はいつもそんな風に、ずっと笑っているのか?」
「ーはい?俺がですか?」
 分かっていた。そうだ、俺はあの時からずっと笑っている。ちょうど三歩と四歩か、面白いもんだな。
 それから、ずっと。
「これが俺の顔なんですよ。わざわざ表情を繕っているつもりはないです」
「まあこんな時代にそんな表情で過ごせるのなら、それに越したことはない」
 船戸は何も答えず、答えるべき言葉も見出せなかった。見出そうという意志もなかった。
「何日ぐらいの滞在予定だ?」
 若者は返答をためらい、店主は苛立たしげに肩を揺すった。
「あの、すみません。特に決めてません。あ、でもお金の心配なら無用です。何なら一週間分まとめて前払いします。個人番号票をお渡ししておいても結構です」
 店主は深く溜息を吐いた。あのな船戸くん。
「ーはい」
「君と会ってまだ十分しか経っていない。俺も人を見る目がある訳じゃねえ。ただそれでもこの十分ほどの印象を話させてもらうなら、君は今時の若い奴らの中じゃあ相当マトモな部類だ。言葉遣いもちゃんとしてるし挨拶もできる。そんな男が何でまたこんな肥溜のような村で過ごそうとするのか全く分からないぐらいにな」
「空気も良いし景色もきれいー」
 三留は右手を振ってその返答を遮った。
「そういうのはいらない。この村が特別自然に恵まれている訳でもなけりゃ、歴史ある建物や町並みが楽しめる訳でもないことは皆知ってる。このご時勢誰にだって事情ってもんがあるし、俺も詮索するつもりはない。ただな、能天気に他人を信用した奴から死んでいったこの五年だ。ライフルの弾は一応全て預からせてもらう」
 船戸は素直に応じた。銃身から取り出したマガジンを三留に渡し、ザックの中を全て部屋にぶちまけ、スペアの弾倉二つを拾ってそれも無言のまま三留の手に握らせた。
「悪く思わんでくれ」
「当然の措置ですよ」
「本来ならライフルも預からなければならない規則なんだ。あと、ここでの滞在は二泊を限度にしてくれ」
「ー分かりました」
「ここ草履地区から一時間も南に歩けば、二果と呼ばれていた集落がある。集落外れの別荘地は全て空家だし、もう誰も来やしない。仰々しくホームセキュリティのシールが貼ってある家もあるけどな、試しに窓ガラスの一枚でも割ってみな。まあガラスが残っているとしてだが。ここが本当に気に入ったのなら、適当な家を選んで侵入してくれ」
「あの、その集落にはセンの連中は―」
「ああ、いねえいねえ。あいつらだってこんな田舎にまでわざわざやって来ねえよ」
 多摩上空で爆破した核弾頭と、千代田区神田にあった四階建てビルの屋上から蒔かれたリシンは、結果的に東京を焼け野原にしたが、全ての建築物が灰塵に帰した訳ではなく、本来の持ち主の死亡、失踪、気力の喪失等によって無人となったそれらの建物は、すぐさま都市部に流入してきた新住民たちのねぐらとなった。国連軍が平塚から八王子、川越、取手、市原を結んだ円周上にバリケードを作るその前から、大気中や各種残骸に滞留する放射能および毒物を恐れて、一般常識を持ち合わせた者ならば東京に近づくことなどまかり間違っても考えはしなかったから、それでもその街に集まる連中は、つまりはもはやそこ以外に行くところのない連中だった。主を失った建物に我が物顔で上がり込み、恐ろしいスピードで白血病やリンパ節の悪性腫瘍、あるいは肺浮腫に罹って死に逝くまで、そこに残された食料を灰の中から漁るそいつらは、「占有屋」を短縮した「セン」という名称で呼ばれるようになっていた。彼らは基本的には無害で、他人との闘争は無駄なカロリー消費につながると割り切り、基本的には単独での行動を旨としていた。東京周辺に住む市井の者は、だから彼らから物理的な暴力の示威を示される恐れは持っていなかったが、ただただ気味の悪さを抱いていた。
 銃弾と二泊分の宿賃十二ドルを受け取った三留の足音が階下に消えるのを確認し、船戸は部屋の中に座り込み、壁に背中を預けた。窓を開けても黴臭さは抜け切らず、背中にもじっとりとした湿り気を感じる。一人になっても顔に貼り付いてしまった笑みは剥がれそうにない。本当に俺はどうかしちまったのか。
 恵の部屋の残像が、まだ後頭部で点滅している。あの時穿いていた靴下の色さえも思い出したのに、奴の名前だけがどうしても出てこなかった。忘れてしまいたいのか、そうでないのか、それすら分からなくなっている。
 彼は立ち上がり、下に降りて店主に声をかけた。ちょっと外出します。
「行くとこなんてねえぞ」
「開いているお店はここだけですか」
「渚って奴の無線屋が日中ドアを開けてるぐらいだ」
「じゃあ、そこに顔出してみます。ここから遠いんですか」
「外に出て左に向かえば、すぐだ」
「ここに泊まっている旅行者だと言っても構いませんか?」
 老人はしばらくその結果を想像し、何の回答にも導かれることなく、やがて小さく顎を縦に振った。手ぶらはまずいだろう。
「ここでお酒でも買っていきますよ」
 三留は手を顔の前で交差させた。そういう意味じゃない。
「ライフルも担がずに歩くのは、どうかカモにしてくださいと言ってるようなもんだ」
「どうせ弾は入ってないですし」
「そんなこと、外から見る分には誰にも分からんだろう」
 混乱の五年が収斂期に入り、無意味な相互殺戮がようやく過去のものへとなりつつあっても、人々の不信感はファッションにも楔のように深い影響を打ち込んでいた。
 銃やサバイバルナイフ。世代性別に関係なく、取り敢えず武器になるものをこれ見よがしにひけらかして歩くのが定番となって久しかった。銃に関しては殆どがモデルガンに過ぎないが、旧満海からの難民が増えるに従って、トカレフやマカロフの実物も市中に出回るようになっていた。警察はライフル保持に関しては狩猟免許の取得と狩猟者登録の必要性を相も変わらず謳い、短銃所持はそもそもが法律違反という原則を今なお貫いている。しかしそれらの決め事は完全に形骸化し、稀に不運な男が職質を受け本物の拳銃の所持が見咎められることがあっても、最寄りの派出所で銃を差し出し然るべき額の罰金を払えばその場で放免された。この程度の微罪でいちいち送検していたら、裁判所は一両日中にパンクしてしまうからだ。
「この村も、手ぶらの人間をよってたかって恐喝してくるような場所ですか?」
「ここではもうそんなことはない」
「じゃあ、このまま出かけます」
「まあ、生きるも死ぬも君の自由だ。好きにすればいい」
 船戸は外に出た。五月の風が彼の頬を撫で、遠くに見える山の緑は、こんな世界でも神様はお見捨てにならないという証左のように色鮮やかな芽吹きで覆われている。その風景だけを見ていると、この国を襲った悲劇がまるで夢物語であったような印象も受けるが、あるいはこの風景こそが幻想なのかも知れない。
 通りを五十メートルも歩かないうちに、彼は一軒の店から漏れてくる音と、複数以上の人間の気配を感じて近づいた。
 三留が言うように、そこには「渚無線」という看板があった。

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