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中編小説「押忍」(31)
季節が秋に替わっても、母さんの具合は回復しませんでした。抗がん剤が引き起こす倦怠感が、日に日に母さんの全身を―まるで癌細胞のように―蝕んでいくようでした。
長く立っていられなくなり、病院から帰った日には部屋の電気も消すようになりました。
「タクミ、テレビでも見なさいよ。私に気を遣うことはないから」
「別に見たい番組もないよ」
僕らは静かに起床し、静かに食事をし、静かに眠るようにして落ち葉が舞う日々を過ごしていました。
そして十月の深夜、獣のような咆哮に目覚めた僕は、布団でのたうつ母さんの歯ぎしりと叫びを聞いたのです。
―救急車
病院に着き、ストレッチャーでICUに運ばれる間際、僕の手を握っていた母さんは、激痛に精神も錯乱していたのでしょう。毛髪のない頭から大量の汗を吹き出し、目の下にひどい隈を作ったあなたは、僕を見て掠れた声で、しかしはっきりと口にしました。
「―隆さん」
既に顔見知りとなっていた病院スタッフの厚意で、僕は空いていた病室のベッドを使わせてもらいました。浅い眠りのまま明け方に一旦覚醒し、もう一度枕に頭を沈め、再び目覚めた時、病室にはすっかり太陽の光が差し込んでいました。
部屋を出てナースセンターに挨拶に行くと、ああムラタくん、ちょっとここで待っててと年配の看護師に呼び止められ、十分後、やつれた様子の木下医師がやってきました。
「ご無沙汰しています」
「ひさしぶりだね。ちゃんとメシは食ってるか?」
「母に付き合って糖尿病患者用メニューばかりを。ウェイトトレーニングも最近はサボり気味です」
「だろうね。明らかに痩せたよ」
僕らは木下医師の部屋に移動し、そこで現状の説明を受けました。
「癌細胞の転移が我々の予想を超えて進行していた。村田香さんが何故今日まであの状態で耐えて来られたのか、驚愕に値するほどだ。最初の手術ですい臓を全摘するという判断をしていれば、もう少し事態を後回しにできたかもしれない」
率直に語る医師に、僕は答えました。
「それは結果論です。むしろ残された日々をインスリンの注射とともに過ごさずに済み、先生には感謝しています」
「―言葉もない」
「予想を超えた進行というのは」
「村田香さんはまだ若く、この病気を発症する前は風邪ひとつひかない健康体だったことがアダとなった側面もある。昨夜、肝臓と胃の一部を摘出した。残されたすい臓は摘出できるレベルではもはやなく、そのままだ」
「転移は消化器系だけだったんですか?」
「いや」
そこで医師は、充血した眼を一旦閉じ、そこに指を押し当てながら続けました。
「腹膜にも、肺の一部にも。痛みは相当なものだったはずだ」
木下医師に促されるまま、母さんの眠る病室に行きました。
「痛み止めのモルヒネを注射しているから、しばらくは眠っておられる。昨夜は痛みを感じる神経も一部切除した」
そこにいたのは単なる生命体でした。呼吸をしているのかそうでないのか定かでない布団の膨らみから、前回の入院時を遥かに凌ぐ何本もの管。顔は枕に埋まり、鼻から伸びたチューブが正面を隠し、そこには一個の人間としての人格も尊厳も垣間見えませんでした。
「これは、酷過ぎる」僕はようやく声を振り絞り、それ以上何も言えませんでした。
「お察しする」