「平壌へ至る道 潜入編」(16)
一九九四年五月 平壌市内各地
翌朝、香ばしい魚の香りに、相慶は目を覚ました。チャンスクは既に起きていて、食堂の主人、河の作業を手伝っている。
趙の言葉通り、粥は掛け値なしに美味かった。
出勤時刻のピークを待って、相慶は単独で外に出た。凱旋門から中心部へと歩き、仁興通りを右に折れ、ソウルのボランティア、李昌徳からのメッセージを確認するため、総連幹部用アパートへ昨日に続けて入る。
階段を上り、部屋の前に立った。鍵を刺した瞬間、体中の毛が逆立った。扉がロックされていない。
昨年の秋。大阪、布施。
長年の悪友にして道場の経営仲間だった、朴龍洙のぼろアパートの扉を開けた時の感覚が、まざまざと蘇る。思えばあれば全ての始まりだったのだ。
ドアを静かに開けた。玄関に靴が二足。
気配を察した小太りの中年男が、相慶と同世代に見える男-こちらは貧相を絵に描いたような体-を従えて姿を現した。この国でこんな体格をした人民など存在しない。
「オマエは誰だ?」
在日朝鮮人の話す朝鮮語だ。相慶は唇に人差し指を当てた。男はそれで察した。
相慶は北向きの三畳部屋のドアを指した。中年男も言葉を発することなく顎をしゃくった。ついてこい。
「ここには盗聴器は仕組まれていないようだが、念の為の用心だ。特にこの部屋は俺が『掃除済』だ」
部屋に入った途端に耳朶を打つ相慶の日本語に、二人は心底驚いたようだった。体勢を素早く整えたのは中年の方だった。「壁紙を破いたのもオマエか」
招かれざる客は鷹揚に頷いた。中年男は舌打ちした。
「ああそうだ―おい、あのテーブルのチラシ」
中年男の言葉に、痩せた若者が部屋をすっ飛び、紙を片手に戻ってきた。
『クライフの映像を見た。一点は取ったが決定的なチャンスを二つ外した姿を見るに、現代サッカーではついていけない気がする』というメッセージの下に、端正な字で別の文言が書き加えられている。
『その二日後の試合の映像を見てみなよ、二点取ってるはずだ』
そしてもう一つのメッセージにより、それが書かれたのが前日のことと分かった。
李昌徳は昨日の夕方以降、ここに無事来たのだ。俺の危険を匂わせるコメントを読み、彼は早めの予定を選択してくれた。
二日後から二日間、新安州青年駅にて待つ。
つまり、明日と明後日の朝。時間について言及がないところを見れば、日本で予め決めていた通り、四時から五時でいいのだろう。
となれば決行はやはり今夜。明日の夜にはどう状況が転ぶか分らない。だが趙秀賢の下ごしらえは今日どこまで進むのだろう?
表情を変えない相慶に小太りの男が囁き声ながらも厳しい口調で尋ねてきた。
「これは何だ、まさか本気でこの平壌で誰かとサッカーの話をしている訳でもあるまい?」
相慶は首を振った。俺には関係のない話だ。そもそもそのチラシには何が書いてあるんだ。
「朝鮮語は分かりませんってか。では最初の質問に戻そう。オマエは、誰だ?」
相変わらず唇を結んだままの侵入者に業を煮やした在日の中年男は、やにわに相慶の胸倉を掴んできた。彼我間の体格差から、容易に倒せる相手と踏んだのだろう。
相慶は喉元を押してくる男の右手首を掴みんで反時計回しにしながら、己の上体を斜めに動かし、同じ向きに回転させる。男は床に叩きつけられた。その正中線に右ひじを叩き込む。
大男はそのまま気を失った。生温かい空気が漂う。失禁したのだ。
そのスラックスの尻ポケットを探る。財布に運転免許証があった。住所は大阪府泉佐野市。
そのまま相慶は若い男に目をやった。床にへたり込んでいる。
「おい」
男はびくりと身を震わせた。はい。
「オマエたちこそ一体何者で、ここには何をしに来た?」
「私自身はこの国の人間です」確かに彼の日本語は、意図的に作為したものとは思えない訛りを含んでいた。この人の、といって中年男を指差す。
「この人の案内役を仰せつかっております」
相慶はその場の判断で、日本語で押し通すことにした。
「つまり、監視役も兼ねている訳か?」
若い男は頷いた。
「あんた、昨日の午前中、この部屋に入ったか?」
「-入りましたが」
「何のために?」
「今朝からこちらの方が」そしてその華奢な男はもう一度倒れたままの中年に目をやった。「北京経由で日本より来られることは分かっておりましたので、空気を入れ替えておこうと」
昨日の午後、俺がこの部屋で感じた違和感は、思い過ごしではなかった。
「それだけか?」
若い男は恐る恐る視線を上げた。と、いいますと?
「他には何もしていないか、という意味だ。部屋に盗聴器を仕掛けたとか、隠しカメラを天井裏に設置したとか、そういった類の措置は?」
男は激しくかぶりを振った。とんでもございません。
「こちらの方はこの国に多大な貢献をしてくださいました。そのような手筈をもってお迎えする相手ではございません」
それは何よりだと呟きながら、相慶は失神中の男の肩を軽く足裏で踏みつけるようにして蹴った。
「一体このデカブツは何しにこの国へ?」
「デカブツ?」
「体の大きな奴、という意味だ。そもそもこいつは誰だ?」
「この方は日本の遊戯施設の社長です。三十万ドルの献金をこの国にしてくださいました。その革命的行為により、我が国はこの度、この方に英雄称号を授与することに決めました」
何てことはない。泉佐野市在住のパチンコ屋が約三千万円でこの独裁国家から金メッキの施されたチャチなメダルと金時計をご購入あそばされた、というだけの話だ。
「表彰式はいつだ」
「明後日です」
「このデカブツが目を覚ましたら伝えておけ。無事表彰式を済ませたいなら、今起きたことは一切合切忘れろ、と。こっちはこいつの名前と住所は把握した」
監視役は震えるようにして何度も首を縦に振った。その髪を侵入者は掴んだ。「次はあんただ。公民登録証を」
「え?」
「とぼけるな。身分証を出せ」
男は涙を流した。それだけは勘弁してください、決してこの話は他言しません。
人のよさそうな男だった。生まれた場所が違っていれば、酒でも酌み交わしながら語り合う関係になり得たかも知れない。
しかしここはどこだ?情けが命取りになる町だ。
相慶は目を閉じて、男に蹴りを入れた。こういう手段で他人を黙らせてきた自分への嫌悪を、その時初めて強烈に感じた。
目を開けると、男は右手で鼻を押さえていて、その指の間から血が流れていた。震える左手で公民登録証を差し出してくる。
相慶はその名を読み上げた。その出身成分を暗示する公民番号も。
「俺は今、ここに記されている情報を全て記憶した」
噓だった。この部屋を一歩出れば、男の名前は忘却の彼方へと押し流すつもりでいた。
「それがどういう意味を持つか、分るよな?」
男は泣き続けながら頷いた。馬鹿野郎、泣きたいのはオマエだけやないわ。
相慶は部屋を出て、河の地下食堂へと戻った。
この部屋はもう使えない。落書きは今夜、脱出は明朝。それ以外の途はない。
約束の午前十時四十五分、趙秀賢は平壌市万景台区域光復一洞にある朝鮮人民軍平壌防御司令部内、安サムチョル大佐の部屋を訪ねた。
部屋までは衛兵が先導したが、廊下ですれ違った者たちは趙と一切目を合わせてこなかった。誰に対するいかなる態度がいかなる結果となって跳ね返ってくるか分らない、この国の通例だ。
部屋に客人を迎え入れ、人払いした安大佐はのっけから宣した。時間は五分、私も忙しい。
保衛部と人民軍が水と油の関係とは言え、この国の治安機構が「金親子による統治システムの堅持」を目的としている点で共通しており、また成人男子の二割が常時軍に所属している点、軍の中にもそれ専用の保衛部隊がある点などから、ある部分ではそうした各機構の線引きは曖昧になっている。軍の階級は保衛部にも適用され、保衛部の階級は軍のそれと同格となる。元山という地方都市の国家保衛部副局長に過ぎない男が、上位者である朝鮮人民軍大佐に理由も告げずに自ら面会を申し入れるというのは、それだけで粛清の対象となり得る越権行為とも言えた。
しかしこの副局長には、金正日との太い人脈という、社会的身分を超越した武器がある。
安大佐は目の前の若輩者と自分の力関係を最初に示すため、五分という短い時間しか与えなかった。
「了解しました。お忙しい中時間を割いてくださったことに感謝しております。最近、僑胞の奴らが不法に我が領土へ侵入し、羅津、先峰の経済特区へと進もうとしていることをお聞き及びでしょうか、大佐」
安は面倒そうに手を振った。それが平壌防御司令部とどう関係が?
「賊は東北部ではなく、ここ平壌に既に入城していると思われるのです」
「そうか、しかしそれは君たちの領分だ。一刻も早く容疑者を拘束し、首領様のご負担を僅かでも軽減できるよう、頑張ってくれ」
「賊は万寿台の首領様銅像を深夜、破壊する計画を立てているらしいことが、我が方の調査で分っております」
安はようやく格下の相手に正面から目を向けた。
「私の監督下にある選抜砲兵部隊が毎晩、銅像を磨いている。その後明け方までの間隙を縫って、ということか?」
「そうです。その証拠も本日、持って参りました」
「それを最初から出せ」
趙は昨日のコピーを手渡した。ゆっくりと、深く息を吸いながら。
ここから遂に、ルビコン川を渡るのだ。
紙を広げた大佐の動きが止まった。これでもかというほど眼が開かれ、黒目はせわしなく動き、紙を持つ手がぶるぶると震える。一喝しようとして、その言葉を呑み込んだ。苛烈な生存競争を勝ち抜いてこの席に座る男の経験が、たった今両者の立場が逆転したことを告げていた。
大佐はようやく、上擦った声を出した。どうしてこんな写真が。
「保衛部の任務は国民全員の監視です。軍大佐とてその例外ではありません」
それは朝鮮人民軍次帥にあたる老人の再婚相手である妻と、大佐本人の不適切な行為を望遠撮影したものだった。オリジナルのネガではなく画像自体は不明瞭だが、そこに記録されている二人の正体は充分に判断できた。
北朝鮮における姦通罪への罰則は、イスラム社会のそれと大差ない。木に縛られ、民衆の投石によって緩慢に、のた打ち回るような苦痛を経て死んでいく。ましてや百二十万人の兵力を擁する朝鮮人民軍の、わずか十人程度しかいない元帥クラスに属するエリートの妻と、平壌防御司令部大佐の不倫案件だ。加えて今その大佐自身の震える手で握り締められている紙に記録された行為は、北朝鮮の基準で照合すれば、相当に変態的な範疇に属するものだった。一糸纏わぬご夫人の尿道口からほとばしる液体が、その下で同じように裸のまま仰向けになった男の顔へとかけられている。少なくとも喉の渇きを癒すための緊急避難行為ではない。この写しの公表によってどれだけの関係者が死ぬことになり、或いは収容所送りとなるか、誰にも想像はできなかった。
「お約束の五分が経ちました」
目の前に立ち続ける男の、忌々しいほど冷静な声に我を戻した大佐は、ドアの向こうに待機する衛兵を大声で呼びつけた。衛兵はノックしドアを開け、部屋のどこも見ていませんという緩やかな視線を天井方向に向けたまま立ち尽くしている。
「保衛部元山副局長との面会を、あと十五分延長する。下がってよし」
ドアが閉じられた。
大佐の不倫相手である次帥の妻は「喜び組」出身者だった。
何らかの刑事犯罪を起こす際には互いにアリバイ工作が頼めそうなほど似たような顔、似たような化粧技術、似たような髪型、似たようなスタイルで統一された若い女の群れから抜け出し、より確実な保身と贅沢を望む者は金正日と一夜を共にし、気に入られれば平壌でのアパートや西側の化粧品、そして多くの社会保障を手にすることができた。
将軍様が飽きた女たちは、部下に売り渡された。最初の妻をすい臓がんで亡くしていたその次帥にとって、次の配偶者の処女性や出自などはどうでも良かった。六十五歳を過ぎて毎晩若い女の肌を独占的に撫で回す権利に飛びついた彼は、金正日にとっても今後自身のスキャンダルになりかねない障害物を引き取ってくれる、有難い部下となった。
女はそこまで割り切れない。かさかさに乾いた手で触れられる度、萎びた陰茎を口に含むよう命じられる度、次帥の妻は夫に殺意を感じた。しかし彼の庇護下にある限り、毎日三食は食えるのだ。
彼女が若い将校を日中自宅に呼びつけるという噂は、以前から耳にしていた。あるパーティーで彼女と話す機会を得た大佐は、その夜には噂の信憑性を自らの体で確認したのだが、これも保衛部の連中が仕掛けたハニートラップだったかも知れないことを、今更ながら文字通り痛感した。
安サムチョル大佐はうなだれていた首を力なく上げた。私に何をしろと?
趙秀賢は説明を始めた。
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