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「伊豆海村後日譚」(32)

 パク・ジョンヒョンが運転するスーパーカブの荷台に座りながら、チェ・ヨンナムは闇夜に眼を光らせた。集落に人の存在は感じられなかった。
 渚無線の前を過ぎ、コンビニの前を過ぎる。
 バス停のある曲がり角でバイクがスピードを落としたその瞬間、何かが動く気配を左手に感じた。
 直後、鼓膜が聞き慣れた小銃の連射音を拾ったかと思うと、体が宙に飛んでいた。着地の瞬間、習慣の力によって受け身を取り、体を回転させたチェ・ヨンナムは、トカレフを四発続けて光の見える軽トラに向かって発射させた。
「ぐわっ」叫び声がして、人の倒れる音が続く。
 ヨンナムは立ち上がり、深く息を吐いた。トカレフをポケットに収める。
 脇腹から出血している。鎖骨も折れたようだ。
 横たわったパク・ジョンヒョンは動かない。その背中から猟銃を抜き取った。
 砕けた鎖骨のせいで、銃を持つ手にも力が入らない。銃身をしっかり脇で硬め、顎で押さえる。瀕死の新井に倒された際に砕けた顎骨が脳に伝える痛みは殆ど薄れていた。大量のアドレナリンが噴水のように体内を駆け巡っているのだ。
 誰かを襲った経験は陳列して売れるほどある。しかし本物の襲撃を受けた経験はそれが初めてのことだった。パク・チョルスの下にいる限り自分が狩られる対象にはならないと、いつの間にか根拠のない自信を深めていた。素人以下だ。
 チェ・ヨンナムはつい一分前までバイクのハンドルを握っていた男の背中から抜き取った猟銃の引鉄を、軽トラに向けて絞り続けた。
 どん、どん、どん。
 射撃音に続いて、軽トラの窓ガラスが割れる。
 不意打ちを食らった怒りとパニックと、そして恐怖。
 右手の人差し指は凍りついたようにトリガーから離れず、実際に凍りついていた。弾を撃ち尽くしてもなお、指は掛けた金具から離れなかった。左手を使ってようやく外した人差し指は、曲がったまま元に戻る気配もなかった。
 微かに耳朶を震わせるうめき声。
 振り返ると、仰向けになったジョンヒョンが起き上がろうとしている。まだ死んでいなかったのだ。寝転んだままの同僚にゆっくり横歩きで近づき、激しい痛みと氷をあてられたような感覚が交互に波打つ脇腹を、歯を食いしばって押さえながらしゃがみこむ。
 パク・ジョンヒョンの端正だった顔は、左半分の肉が剥け、頭蓋骨が剥き出しになっていた。破れた鼻の穴が呼吸の度ひらひらと揺れている。敵の二次攻撃を警戒しながら、ヨンナムはリーダーの弟に話しかけた。
「喋れるか」
 寝転んだままの男は、月明かりでようやくそれと確認できる程度に首を左右に振った。右足の先が反対側にまで捻じ曲がっている。歩くことはできないだろう。ヨンナムは冷静にその事実を相棒に伝えた。
「ジョンヒョン、率直に言っておまえを助けることはできない」
 パク・ジョンヒョンは薄く笑った、ように見えた。
「治癒の見込みがない中途半端な重傷兵が、敵よりも厄介な存在になるのは、おまえも知っての通りだ」そしてチェ・ヨンナムは立ち上がった。
 「おまえのことを、昔は好きではなかった。偉大な兄のお陰で今日まで生き延びてきた無能な兵士だと、ずっと思っていた。でも今は違う。パク・ジョンヒョンはパク・ジョンヒョンなりに、このクソみたいな国で生きていくやり方を俺たちに教えてくれた」
 兵士はトカレフを握り、死にかけた男の脇腹に差し込んだ。敵が襲撃してくる気配は全く感じられない。相手もまた死んだか、瀕死の怪我を負ったか。とはいえ感傷に浸る時間はなかった。ありがとう、と小さく呟き、ヨンナムはトカレフの引鉄を引いた。
 そしてまだ温かい死体のあちこちに手を這わせたが、手品のように予備の実包が見つかることはなかった。
 車の向こうから反撃はない。
 だが兵士はすぐに近づこうとはしなかった。満身創痍のこの体が今手にしている武器は、命中精度の低いトカレフのみ。相手がもし生きていて自分を待っているのなら、まず勝ち目はない。睨み合いに付き合うことにした。じりじりと後退しながら。
「おい」顎の痛みを考えないようにして、軽トラの向こうに声をかける。撃ってきたのは一人、恐らく男。では女はどこに行った?既に町まで逃げ、警察署にでも駆け込んだのか?
 ならば俺にはもう追いかける術がない。この体では倒れたバイクを起こすことだってできやしないし、そもそもフロントフォークが完全に曲がっている。
 背後にゆっくりと下がりながら、もう一度闇へと言葉を発する。
「おい、死んだのか。生きてるなら返事しろよ。どうした」
 漁協の建物跡、軽トラの向こうからは、それでも波音しか聞こえてこない。
「なんだおい、怖気ついたのか?昼間新井をやったのもおまえだろう?大した腕前じゃないか。今更隠れる必要がどこにある?出てこいよ、そこから出てこい。殴り合おうぜ。それで決着つけよう。俺は殴り合いは苦手だし、おまえは元ボクサーに勝った男だろ?」
 麻痺し始めた顎を動かし喋り続けながら、チェ・ヨンナムはじりじりと退がり、やがて背中が建物の壁にぶつかった。この集落に着いて最初に訪問した建物。
 コンビニの壁にそのまま体を預け、体力の低下を防ぐ。シャツを脱ぎ、破って脇腹にきつく締める。
 少佐の見立てが正しかった。罠だったのだ。
 集落から最も離れた北田の家にカブなど本当はなかったのだろう。自分たちの逃亡に余計な時間がかかっていると俺たちに思わせ、今なら間に合うと早合点させ、そして追いかけさせた。こいつは俺たちが考えているずっと前から、この曲がり角で俺たちが来るのを待っていたのだ、闇夜に眼を慣らした状態で。
 最初から俺たちとファイトをする気でいたのだ。
 この五年、脆弱な連中しか見かけなかったこの国で、そんな奴がまだ残っているとは思わなかった。少佐が常々仰っていた、日本人を見くびるなという言葉を、俺は腹の底に刻みつけることができなかった。
 女装家は口腔に溜まった血を、溜息と共に吐いた。過去二十年に渡る上官への忠誠心は殆ど釈迦に仕えるアーナンダのレベルであったが故に、一旦それが綻び始めると、その速度もまた早かった。それは自分自身の崩壊でもあったから、この二日ほどチェ・ヨンナムの精神は激しく不安定な状態にあった。今またパク・チョルスへの信頼と尊敬が体内に復活してくるのを感じて、この上ない恍惚と安心感に包まれ、体中の怪我を忘れるほどの温もりを彼は全身に味わった。トランシーバーのボタンを押す。
「少佐、取れますか」
「ヨンナムか、状況はどうだ」
 あなたの弟は死にましたとは言えなかった。
「少佐のご賢察どおりでした。現在睨み合っています。女は逃げた可能性があります。一時間のあいだ交信を切ります」
 元少佐は一言だけで応じた。了解。
 自分と少佐の声が電子音となって、軽トラの向こうから聞こえてきた。周波数は同じだ。敵の無線機もそこにあるのだ。船戸とやらは死んだのか?それとも別の罠か?
 そのまま三十分待った。三十分だと思う。時間の感覚が少し狂い始めているかも知れない。軽トラの向こうからは全く気配がない。
 腹が減った。昼から何も食っていない。新井に足を取られて転倒した際に折れた顎のせいで、夕食もスキップした。襲撃されたショックと、反撃に転じた際の急激なカロリー消費。そして感情の揺れ動き。そうした時間を経て心身が小康状態に陥った今、体が栄養素を求めている。チェ・ヨンナムはじりじりと下がり続けた。コンビニの壁にその血痕が一筋のラインとなって残る。
 店の扉までやって来た。流動食かサプリメントが奇跡的にあるかも知れない。取り敢えず何か腹に入れておかねば。腹が膨らんだら、思い切って軽トラの裏に回ってみよう。
 元人民軍兵士は店の中に足を踏み入れた。
 そこに、ウジを構えて立っている三留香がいた。
 
 機関銃の掃射音に、船戸は意識を回復したが、体を動かす気力までは湧き上がってこなかった。誰かが走ってくるのが聞こえる。敵か、味方か。どちらでもいいや、もう。
 若者はそのまま窪地に身を委ねた。微かな声が闇の中から聞こえてきた。
 「船戸くん、生きてる?」

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