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「伊豆海村後日譚」(4)

 【西暦二〇三〇年・兵庫県某所】
 
「車はフル充電してあるのか」
 そう尋ねる男の実年齢は四十八だが、四十歳にも五十歳にも六十歳にも見える。身長百七十センチ、体重は状況とそれに応じた役割によって増減するが、概ね六十五キロ。醜男ではないがハンサムでもない。あまりにも印象に残らない外見が印象的なその男は、生まれついての工作員と言えたが、彼自身は対象国に長期潜入した経験はない。むしろ男はかつて、現場に散った諜報員たちから恐れられる「掃除屋」だった。
「退廃した西側諸国の文化に染まり大将への忠誠を忘れた者」は、人質代わりの家族がどれだけ故国に残されようが、半年に一人は発生した。そうした裏切者の動向をいち早く察知し、彼または彼女が何らかの保身行動を起こす前に捕え、密殺するのがその男の使命で、そうした任務において男はその国の一軍選手だった。
 まだ元号が平成だった頃、公安がその正体を見抜き、彼の好みのタイプと分かっていたある女優に似た吉原勤めの女を「偶然」に出会わせ、半年かけて籠絡した、満海民主主義人民共和国の十七番目に序列されていた大物党員の甥ー留学ビザで二年前から東京に滞在していたが、その正体は現地工作員を束ねる班長ーをいよいよ明日引っ張るかと捜査員が手ぐすね引いていたその夜、高輪台の自宅マンションから消えた甥は、翌朝品川駅構内の便所で腐臭漂う肉塊となって発見された。
 監視カメラにも有用な映像は残っておらず、人口密度が高い場所であったにも関わらず目撃情報は全く寄せられなかった。所轄の警察署は遺体の身元を特定できなかったが、敢えて短時間で発見される場所を選んで凶行に及んだ男のメッセージは、被害者の正体を知る数人の男たちに確実に届き、彼らを歯ぎしりさせた。公安の精鋭は甥がいつ誰と自宅を出たのかすら気付かなかった。
 共和国で十七番目の地位にあった老人の破砕された射殺体が北の凍てついた土へと還る頃、「掃除屋」は北京空港から帰国便に搭乗していたが、一点気にかかることがあった。
 今回の任務で日本に滞在したのは五日間。その間に一度だけ受けた職務質問。
 大手紳士服チェーン店で二着三万円だった吊るしのスーツを身に纏い、平日の朝八時に歩いていた品川駅南口。雑多な通勤客でひしめくその場所で、彼だけが呼ばれて手招きされた。男の偽装身分は完璧ー実在する日本人のものだったから、いわば「本物の偽物」だったーで、母国語と同じように操る日本語も淀みはなく、あっさりと解放された彼は、本来の任務終了後、捻出した半日を利用して自分に手招きしてきた警官の個人情報を引き出し、あの職質は全くの偶然だったと結論づけた。
 ということは、俺にもとうとう「匂い」がついたのか。
 共和国に戻り、彼はその報告を上司に行った。その結果、正体が判明し彼本人が拘束された場合の国家的損失を試算した上層部によって、彼自身がずっと訴えていた海軍への復帰が認められた。
 それから十数年の紆余曲折を経て、男は「本物の日本人」になり、更に五年、一度も職務質問を受けることなくこの国で過ごしてきた。自分の「匂い」が落ちたのか、この国の官憲の嗅覚が衰えたのかは分からない。ともかく四十八歳になった男は、明日使うことになる自動車の充電状態を部下に問い、その答えを聞いた。「完璧です」
 
 ***
 
 船戸は「渚無線」の店先で立ち止まり、中を覗いた。
 店には四人の老人がいて、全員が逆に見返してきた。どの眼も野良猫のように油断のない光を湛えている。若者は臆することなく声を出した。こんにちは。
 屋根まで飛んで壊れて消えたシャボン玉のように、その言葉は誰に顧みられることもなく大気中に溶けていったが、若者はもう一度同じ言葉を重ねた。
「誰ね」老人Aが船戸から視線を外すことなく呟き、隣に座る老人Bが同じ方向に眼を据えたまま応じた。三留んとこにおった。
 ああ、これが「田舎の通信網」というやつだ、と若者は声に出さずに呟く。
 一番奥に座る老人Cが声をかけてくる。何か用か。
 通りすがりの旅人はおずおずと口を開いた。
「あの、皆さんはここで何をー」
「聞いているのはこっちだ」一体どこを眺めているのか分からない老人Dが目を細めたまま煙草を口に咥え、火をつける。ニコチンの香りが店内の暗い土間に広がる。
「俺は、ただの、旅行者です」
「その若さでや」「仕事はしよらんのか」
 この時代、働かない若者はショートケーキの箱に入ったゴキブリのような扱いを受けていたが、ゴキブリたちにも言い分はあった。俺が今更あくせく働いたところで、この国がどう再建されるというんだ?
「今は無職です」
 出来の悪い小芝居のように、四人の老人が揃って溜息をつく。
「無職の王子様がこんな田舎に何の用だ」
「特に用はないですけど、バスに乗ってて、景色のいい所だなあ、と」
「悪い奴ではないようだら」老人Aの言葉に、Bも相槌を打つ。
「な。悪党ならこんな下手な嘘はつかね」
「何の武器も持っとらんみたいだしの」
 Dが初めて得意気に話しかけてくる。
「てことは何だ君は、パックンか」
 それは五年前に若者の間で流行った言葉だった。
 
 朝鮮民主主義人民共和国、「北朝鮮」が国家樹立を果たした一九四八年九月から遅れること半年。そのすぐ東、豆満江の流れに沿うようにプチチエ湖南岸から日本海一帯にかけて、佐渡島の半分ほどにあたる約四百平方キロの湿地帯をその主権範囲とした、「満海民主主義人民共和国」の成立が宣言された。
 初代国家主席はパク・スンヨプ。朝鮮労働党の初代政治委員でありながら、北朝鮮の新たなカリスマ、金日成と対立し、粛清の手を逃れソ連に亡命していた男だった。
 湿地帯はかつて関東軍が満州国を運営していた地域の一部であり、そうした「日帝からの屈辱の歴史」を忘れぬため、という理由で、満州から一字を取って正式な国名とした。
 その国家建設の経緯から、金日成は満海国の存在を頑として認めなかったが、パク・スンヨプは不倶戴天の敵と超大国に挟まれた自分の国が、吹けば飛ぶよな将棋の駒であることを冷静に客観視していた。共産国家を指向しながら、彼は建国早々、スイスの支援を仰ぎ小さなプライベートバンクを設立したのだ。更に戦後諸事情によりハルビンから逃げ遅れた某部隊の幹部研究者を二名、拉致同然に客人として迎え、細菌兵器工場の稼動も開始した。スンヨプは当時のソ連の首領、スターリンに取り入り、その財産を自らの党が運営するプライベートバンクに預けさせ、それを元手として開発した生物兵器を時にヨルダンに、時にイスラエルに売りつけた。彼にとって買い手の政治信条は関係なく、鄧小平が言うように「黒だろうが白だろうが、鼠を捕まえるのが良い猫」だった。その代金の回収自体が、そのままスターリンの秘匿する莫大な資産のマネーロンダリングとなった。満海国は小柄な独裁者にとって、一夜にしてなくてはならない存在に変貌した。
 スンヨプは同様の営業を毛沢東に対しても行い、北朝鮮からの脅威に対する保護を、あっという間に東側陣営をリードする二大国家から取り付けた。金日成はその過程を傍観する他なく、以来この両国は激しい思想対立を半世紀以上に渡って展開してきたが、政策面ではどちらも救いようがないほど愚かな点で一致していた。共に徹底した人民の身分管理を行い、言論の自由を剥奪し、国家主席を実質的に世襲制としたのだ。
 二十一世紀初頭、国内総人口約三十万、その九十パーセントが朝鮮系、五パーセントが中国系、残りがロシア系およびユダヤ系、と推測されていた三代目指導者の頃、満海国は重大な国家間貿易に踏み切った。祖父の代からの宿敵であった隣国から、二千万ドルと引き換えにある商品を買い付けたのだ。
 核弾頭。
 当時の世界的な楽観視、あるいは希望的観測に反して、北朝鮮は既に濃縮ウランによる核弾頭の小型化に成功していた。これを国境を接する敵国に売りつけるにあたり、平壌に住む朝鮮労働党幹部の間で侃侃諤諤の論争が重ねられたことは想像に難くない。しかし結局は実利派が勝利を収めた。餓死者が続出するほど困窮していた「地上の楽園」は、本物の米ドルを喉から手が出るほど欲していた。明日の脅威より今日のスープ、という訳だ。
 満海国第三代指導者が長年の暴飲暴食の結果、動脈硬化により五十歳で死んだ時、その息子はわずか二十二歳で、父、祖父、曽祖父から受け継いだ冷酷さと狡猾さを兼ね備え、しかし残念ながら自らの脆い政権基盤を綱渡りのように運営していく知恵は持ち合わせていなかった。そこにその世代特有の無意味なマチズモが加われば鬼に金棒、完全無欠な愚政者の誕生だ。泥にまみれた権力闘争の挙句、先祖の敵を俺が討つと叫びながら「大将」が自暴自棄に押したボタンにより、発射された三発のミサイル。
 一発目は隠岐島の沖合三百五十キロの海中に沈んだ。日本政府は即座に抗議した。
 二発目はあっけなく黄海に消え、日本人を含めた世界中がそれを嘲笑した。やはり「あの」満海国だ、と。
 そして最後の一発。
 その飛翔体の存在をいち早く察したアメリカの早期警戒衛星から同国防省経由で日本国政府に届いた緊急連絡に対し、内閣府のレスポンスは当時一億一千万人いた日本国民全員に対する背任罪ものだった。
「Jアラートからは何か入っているか」
(しばし沈黙)「特に何も」
「すると何だ、アメリカからの連絡は誤報か」
 既に沖縄から在日米軍を全面撤退させて久しいアメリカは、横田、岩国にわずかな空軍を駐留させているだけだった。その結果、尖閣諸島の一部の浜辺で五星紅旗がはためくようになり、それを日本人の誰一人として引き抜きに行こうとしなかったことが、新たな「世界の頭領」を更に調子づかせた。人民解放軍の空母が宮古島の浜辺から肉眼で見える位置まで接近し航行する事案も多発し、双眼鏡を覗けば甲板上で堂々と鼻糞をほじる中国人兵士の姿も確認できた。
 それに対して遺憾の意を表明する以外に能のない政府の弱腰を国民は非難した。与党のみならず、沖縄からの米軍撤退を公約に掲げていた野党議員までもが、世界的な経済のブロック化が導いた現状と、それを利用し日本を見捨てたアメリカに対して不信感を募らせていた、そんな時期に届いた緊急連絡。即座に次善策を打ち出せる者は永田町には一人もいなかった。彼らはまず、情報の正誤を無知な者同士で問い合うという寝言じみた会話に三分半の貴重な時間を費やした。横田基地に配備していた地対空誘導弾パトリオットを搭載した迎撃システム、PAC4への稼動命令を出すまでが更に二分。
 横田基地の隊員がPAC4を所定位置につけた頃、「飛翔体」は長野県上空を既に横切っていることが確認され、それを知ったアメリカ統合参謀本部およびその上部団体である国家安全保障会議の面々は大統領以下、静かに祈り始めたという。この東洋の同盟国の指導者がこれほどまでに無知で、これほどまでに愚鈍で、これほどまでに未熟であるとは流石に想像以上だった。しかし時既に遅し。死に逝く者を侮辱するのはやめておこう。このような指導者を自らの手で選んでしまった日本国民一人ひとりの魂に救済のあらんことを。
 内閣府での会話が噂の域を出ないのは、その議事録を記すべき人間も、それに着手することなくこの世を去ったからだ。パトリオットミサイルが三分早く横田基地のPAC4から発射されていれば飛翔体を補足できていたかどうかは、永遠に続く歴史上のイフとなった。
 地盤の固さから、大手銀行をはじめとする国内の大企業がこぞってビッグサーバーを設置していた多摩丘陵の上空で爆発した核弾頭は、一瞬にして下界を炎と放射性降下物が支配する世界へと変貌させ、国民の膨大な個人情報が燃えつきた。八王子市に住む元自衛官夫婦は自分たちの携帯電話を振るわせた一報がJアラートであることを知った瞬間、庭下に埋めていたシェルターに逃げ込んだが、爆発の威力は危機管理能力に長けた夫婦の想像をも遥かに凌駕した。彼らは放射能のせいでもなく、燃え盛る火のせいでもなく、およそ直径四十キロに渡って三十秒近く大気から酸素が失われたことによる窒息によって命を失った。ある意味焼死より苦しい死に方だったに違いない。
 国中がパニックに陥ったその三十分後、あらかじめ本国から受けていた指令に基づき、満海国工作員が神田にある貿易会社、実際には彼らの工作拠点だった建物の屋上から五十キロ弱のリシンを空中に舞わせた。彼らは十三時間後に鬼籍へと旅立ったが、自分たちの命が宿敵日本の首都に住む七百四十万人の生命と引き換えに失われたと地獄で知ることになれば、その霊魂も満足しただろう。
 ひまし油の原料となるトウゴマの種子から抽出される猛毒。大気中のリシンを肺胞に吸い込んだ者は、大部分がその場で歩くこともできない下痢と嘔吐に襲われた。都心の医療施設は軒並み満員札止めとなったが、そもそも医療従事者自身が動ける状態になかった。リシンの解毒剤は今に至るも見つかっておらず、できる治療もなかった。また、高い致死性を持ちながら即死には至らせないというその性質が、更なる惨禍をこの国にもたらした。
 既に都内の交通機関は完全停止していたが、動ける体力のある者はどうにかして自宅に戻るべく、都心から各地へと散らばった。その衣服には致死量の毒物がこびりついていた。翌日には脱水症状、血圧低下、腎臓、脾臓、肝臓の壊死、肺水腫等により緩慢に命を削られていく者の吐く血が神田を基点として放射状に地面を染め、リシンによる肺水腫患者は千葉県東金市や神奈川県箱根町といった遠方でも確認され、住民はこぞって地方へと逃亡した。
 急激に人口が増えたかつての過疎地で食料の奪い合い、価値観の差異による衝突が発生した。東京周辺から人がいなくなり、ライフラインの停止は言うに及ばず、電話会社やインターネットのプロバイダ各社も機能不全に陥り、日本人の八割近くが保持していた多機能携帯電話は、ただのアクリルでできた薄い板でしかなくなった。
 リシンがどれだけの期間大気中に滞留し、風でどこまで広がるか、といったプラクティカルなデータはこれだけの規模になれば誰も開示できず、それが熱に弱いという情報だけを頼りに、長野県松本市に設置された暫定日本政府は、米軍に無人となった東京都心への爆撃を要請した。七百四十万人の死体から流れ出た糞便が引き起こす新たなパンデミックへの懸念もあった。八十年の時を跨いで、東京は再びアメリカ空軍からの焼夷弾によって徹底的に燃やされ、その約二ヵ月後、アメリカとフランスの偵察衛星から、かつて新宿御苑と呼ばれていた場所に野犬がうろついている画像が送られてきて、トップニュースとなって世界中に配信された。
 野犬に続いて、センと呼ばれる浮浪者が在りし日の首都に続々と戻ってきた。
 暫定政府は国家の災厄に対する責任を満海国ー国連軍の空爆により既に地球上から消え失せていたーの死んだボンボンに求め、PAC4になすりつけ、自らの最後の日に右往左往することしかできなかった自分たちの同僚をかばった。
 以来、無能な人間は「PAC4」転じて「パックン」と呼ばれるようになったが、流行り言葉の常で、それが全世代の耳に入る頃には当の若者の間では死語と化していた。

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