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「平壌へ至る道 潜入編」(11)

 相慶とチャンスクは金一峰老人と固い握手を交わした。
「ヤマダくん、工作活動の一番の成功例はな」
「はい」
「生き残ることだ。絶対に無理はするな。退く勇気が本物の勇気で、進む勇気は時として蛮勇に過ぎない」
「肝に銘じておきます」
「わしが生きている間に、いつかまた会える日が来れば、直接今日からの話をこの老人に聞かせてくれ。無念を残して死んでいった妻と息子の、何よりの供養になるからな」
「-必ず話しに来ます」
 いつかまた会える日などないことはお互いに分かっていたが、わざわざ口にする必要もなかった。
 祥原からのバスは昨日と同様、七時ちょうどに出発した。今日はチャンスクも同乗したが、周囲の反応はやはり昨日と変わりなかった。彼女と微かに目が合った中年の男は、すぐにその視線を車両の床に落とした。
 
 走り始めて二十分ほどして、バスに異変が起きた。ノッキングを重ね、素人の耳にも異音を発し始めた。運転士がギアがセカンドに入らないといった内容の言葉を叫んでいる。
 相慶は外を眺めるように体を捻り、「妻」の耳元に口を寄せた。「罠か?」
 かつて平壌っ子だった彼女もまた、窓の外に目を向けたまま答えた。よくあることよ。
「この国には一年を通して故障なしに走る車なんてないわよ。党幹部のベンツを除けばね」
 バスを降りる。
 紙に何事かを書き殴り、運転士が一枚ずつバスを離れる乗客に配っている。車両故障により振替輸送となる旨の印字に、汚い字でサインがしてあった。
 二人は慣れた様子の他の乗客と一緒に、最寄の駅まで歩いた。
 力浦駅。
 ここでもデジャブのように視界を占める、無個性の化身とも言うべき駅舎の建物。その壁に掲げられた巨大な権力者親子の肖像画と、赤色旗に書かれた空虚なスローガンも同様。
 「私が住んでいた頃は」駅のホームに進んだ時、チャンスクは言った。「平壌の近郊列車は、この時間帯なら三十分に一本の間隔で運行されていた。今はもうそんな頻度ではないにせよ」
 間もなくやってきた列車は立ち客も出る乗車率ではあったが、あの元山駅で見たようなカオス的混沌にはなかった。
 列車は十五分程度で大同江駅に到着した。
 ここで降りるべきではないか、と相慶は小声でチャンスクに話しかける。次の終点、平壌駅には見張りがいるかも知れない。
 彼女も囁くように答えた。この駅も同じ状況でしょう。想定リスクが同程度なら、より大きな駅で下車する方が見つかる確率は薄まると思う。
 彼らの逡巡をよそに、列車は再び動き出し、相慶は奥歯を嚙みしめた。昨日、リスクを背負ってでも平壌駅構内を視察しておくべきだった。しかしそうすることで俺の命脈はその時点で絶たれていたかも知れない。今朝の金老人の言葉を改めて思い出す。絶対に無理はするな。
 列車は錆びたトラス僑を渡り、平壌を象徴する大河、大同江の中州である羊角島を過ぎる。
 平壌市街に並ぶ建築物の隙間から大同江ホテルの最上階が見えた。
 町随一の高級ホテルが、この五年後の一九九九年に火災によって消失することになるとは、その朝は誰も知る由もない。停電時に放置された旧式の電気アイロンが出火元で、燃え広がった火を消し止めようと消防隊が現場に到着した時も一帯は停電中だった。
 排水ポンプは動かず、目の前のメインストリートには給水栓もなく、消防士が目の前の大同江から文字通りバケツリレーで水をかけていくしか対応策はなく、大規模な火災が収まったのは「とうとう燃えるものがなくなった」三日後の朝だったと言われている。死者数など事故について報じたメディアはなかった。
 列車が大同江を渡り切った。
 スモッグが町を覆っている。これは吉兆か凶兆か。
 工作員の堂々巡りの葛藤を嘲笑うかのように、列車は平壌駅に到着した。

 本能的に、二人は少し離れて歩いた。
 幾何学模様に鉄骨の組まれた天井。その下にある長く暗いホームを進むと、更に暗い改札口があった。何人もの安全部員、保衛部員、軍服姿の若者がいる。
 その中に、見知った顔を見つけた。
 三日前の朝、元山のジャンマダンに向かう前にチラリと姿を見かけた時の、傲岸な雰囲気は雲散霧消している。数日で頬はこけ、視線は定まらず、隣にいる男におもねるような表情が、彼の今を端的に物語っている。
 それでも、本人であることに変わりはない。
 飲み込んだ鉛が胃袋の底に落ちていくような感覚。賭けにまずは負けた。
 しかしまだチャンスはある。張仁錫中尉の元にいた二日間、俺は白髪の日本から来たヤクザだった。
 今とは違う。そう、今とは違うのだ。
 
 元山保衛部の副局長、趙秀賢は怒り心頭に達していた。
 それなりに優秀だったはずの自分の「友人」が、これほどまでに腑抜けだとは思ってもいなかった。
 一昨日、張中尉を引き連れてこの平壌駅に到着し、地下改札口は平壌保衛部の協力を得て問答無用で封鎖し、一箇所だけ残された地上の、壮大な駅舎ホールに面した改札口に陣取った。
 初日、張中尉は計八人の男を指差した。「ヤマダに似ている」
 平壌保衛部からは腕利きの捜査官二人を割り当ててもらっていた。彼らに頼んだ追跡結果は、当然のことながらいずれも空振りだった。自分の寿命を指折り数える立場となったこの軍人は、滑稽なほど冷静さを失っていて、三十前後の男はことごとく「ヤマダのように見える」のだった。
 張り込み二日目の昨日、張中尉は十三人の下車客を指差して言った。今度は確実だ。
 平壌の保衛部員にとって、この元山から来たコンビは狼少年以外の何者でもない立場へと変質しつつあった。俺たちがこの田舎者に協力しているのは、「元山の政治犯逮捕に協力し、あの趙秀賢に恩を売っておいて損はない」とトップダウンで厳命されたからに過ぎない。
 しかしどうだ、こいつはこの程度の力量だったのか。
 ああそうだよ。趙は内心で毒づいた。俺は元々その程度の捜査官なんだよ。
 三日目の今朝、張中尉が昨日よりは確信的な声色で呟いた。「ヤマダだ。今度こそ間違いない」
 平壌組はせせら笑ったが、趙秀賢は中尉の人差し指が示す男の一挙手一投足に注視した。共和国の人民にしか見えないが、それは元山の空き地で倒され、翌朝自由を取り戻した捜査官、盧一権の証言とも合致する。身長は百七十センチ弱。この国にあっては大柄な部類だが、目立って背が高いという訳でもない。顔色は悪く体も痩せているが、身のこなしはしなやかだ。下を向き、官憲の誰とも視線を合わせようとはしないが、それは別にこの男に限った話ではない。
 左の袖口を注視する。一瞬だが金色に光る物体が見えたような気がした。
 男はそのまま通り過ぎた。俺が尾ける、そう言い残して趙秀賢は男を追いかけた。

 駅を出て、男が振り返った。趙秀賢はそのまま速度を落とすことなく歩き続けた。若い女が男に近づき、男に何かを言われて慌てて離れた。二人が知り合いだとすると、あの女こそが元山の娼婦、辺昌淑か?
 人民軍の通訳、崔少尉と盧一権を、より彼らの行先として確率が高いと考えた東北部、羅津に送ったのが悔やまれる。
 目の前の男が本当に標的であるなら、この町まで入られた失態を、ますます平壌の中枢に知られる訳にはいかない。訓練のための都市封鎖に乗じて調査を実施中、というストーリーを講じている以上、足かけ三日続けた張り込みも今日が期限日だろう。
 何としてもこの日のうちに、ヤマダを確保しなければならない。

 男は平壌駅ホールから地下通路へと降り、地下鉄の「栄光」駅へと消え、女も続いた。心証は灰色。
 男は平壌地下鉄千里馬線の「赤い星」駅方面の列車に乗った。女も同じ車両へと。趙は隣の車両に入った。
 「烽火」駅。男は動かなかった。
 次の「勝利」駅でも同様。
 車両のスピーカーから、金日成を称える革命歌が流れてくる。何度か平壌には出張で来ているが、趙はこの地下鉄の革命歌と、大仰な駅名がいつも肌に合わなかった。
 「統一」駅。男はやはり動かなかい。乗客の多くが下車し、彼我間の遮蔽物が激減した。捜査官は舌打ちした。
 「凱旋」駅。相変わらず男は車両内に留まっている。
 「戦友」駅。男が降りた。女が後を追う。趙も続いた。
 男と女の関係性はもう明白だった。他人同士を装いながら彼らは地下鉄に乗ったのか?
 そうする理由があったから。
 心証、暗灰色。それだけでこの共和国では、現行犯逮捕の対象とできる。
 男は出口へのエスカレーターには向かわず、足を止めてホームの反対側に立った。
 畜生。折り返しやがるのか。
 男が背後へと首を回した。通り過ぎる自分の背中をじっと観察していることを、その強烈な殺気が振り返らずとも教えてくれていた。
 趙はそのまま致し方なくエスカレーターに乗った。一旦尾行は打ち切らざるを得ない。
 長い長いエスカレーターだ、再びホームに戻る頃には二人の姿は消えているだろう。
 
 十分後、趙秀賢が折り返しの下りエスカレーターから再び「戦友」駅ホームに降り立っていた頃には、やはり標的の姿は既になかった。
 考えろ。あの二人は間違いなく新婚旅行を装っている。目的地は「烽火」と「凱旋」の間だ。
 新婚旅行を騙った何らかの犯罪予備者が、この途上で足を運ぶ場所はどこだ?
 優秀さではなく人徳と運によってカリスマ捜査官に仕立てあげられたに過ぎない男でさえも、そこがどこなのかは容易に推察できた。
 折り返し「復興」駅方面の列車に乗り込んだ趙秀賢は、「統一」駅で下車した。
 やはり果てなく続くエスカレーターは人で溢れ、追い抜かして歩くことは難しく、彼の焦る心を苛立たせた。
 ようやく地上に出る。目の前に金日成の二十五メートルの銅像が、周囲を睥睨するかのように聳え立っている。

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