「平壌へ至る道 潜入編」(12)
朝鮮人民軍の張中尉は俺に気付かなかったのだろうか。追いかけてこなかった。
別の犬を想定し、「戦友」駅まで粘った。そこで自分に続くようにして地下鉄車両から降りてきたのは、平壌駅の改札口で張中尉の横に立っていた男だった。意図的なのか能力不足なのか、尾行者の気配を四方に撒き散らしている。
鄭相慶は突如として駅のホームで足を止め、後ろを振り返った。
尾行者おぼしき男は、下を向いてそのまま歩き続け、そのままエスカレーターに乗り、そのまま上まで向かった。相慶は念のためエスカレーターの真下まで歩き、この国に入って初めて、衆人下であからさまな敵意を視線に込め、小さくなっていく男の背中を睨み続けた。
相手はこちらを振り返ることもなく地上に消えていった。
相慶はそこで他人のフリを続けていたチャンスクに、ようやく笑いかけ、逆への列車に乗り、「統一」駅まで戻って一緒に降りた。
地上に出て、道路を渡り、丘を登る。
これから自分がやるべきことを分っている身にとって、値段の割には新鮮とも言えない花を買うことも、それを首領様の足元に捧げることも、像に向かって深く一礼することも、屈辱には感じられなかった。寧ろこの像の鼻下にチョビ髭が描かれた姿を想像し、笑いを堪えるのに苦労した。この丘で像と同じポーズを取ってカメラに収まった外国人旅行客がその後行方不明になったとの噂もある。本当に笑い出してはいけない。彼は隣に偽装妻を従え、他の善良なる人民と同じ行動様式に従った。
買ってきた花を献花台に置く。頭を下げる。そして再び頭を上げる。
視界の右に、男の姿が映った。地下鉄に乗っていた男だった。
彼は小さな声で、前を向いたまま尋ねてきた。
「ヤマダか」
チャンスクが本能的に、そっと相慶の腕を取ろうとして、慌ててその手を引っ込めた。右に立つ男がやはり小さな声で続けた。心証、黒。
三人ともそしてしばらく何も話さなかった。今この男を倒すことはできるか?相慶は自問した。
できる。
しかしその後は?周囲の兵士が躊躇なく撃ってくるだろう。俺が死ぬのはまだいいが、チャンスクを巻き添えにはできない。新坪郡での朴尚民の言葉が耳の奥でこだまする。
捕まればあいつの人生は終わりだ。それでも逃げたんだよ、チャンスクは。あんたを必死に掴んで、あんたに運命を託して。
「ヤマダだな?」
祥原での金老人の言葉を思い出し、相慶は咄嗟に答えた。「あんたが趙秀賢か」
右の男はあからさまに驚いた顔をこちらに向けた。噂ほど優秀な犬ではないようだが、自分がこの男にロックオンされたのは紛れもない事実だ。
「残念だよ」相慶は空を見上げた。朝、町を覆っていたスモッグは消え去っていた。日の光を浴びてグロテスクに輝く、この国のリーダーの偶像が視界に入ってくる。「もう少しだったのに」
「この町で何をするつもりだったんだ」
「この像の鼻下にスプレーでヒトラーのような髭を描いてやる予定だった」
右の男はまた意表をつかれたような表情を顔に貼り付け、それを慌てて消した。
これが芝居でないのなら、と相慶は静かな溜息をついた。この国の人材難は相当なレベルのようだ。
「それだけか?」
「それだけ、というのは?」
「オマエが日本からわざわざ来たのは、それだけのためか?」
二人は像の方へと直立不動の体勢を取りながら、話を続けた。
「そうだよ」
「経済特区での破壊工作じゃなかったのか?」
相慶は上を向いたまま微笑んだ。
「そういうのは、嫌なんだよ。こいつは今までクソ大勢の人命を奪ってきた。俺が同じことをすれば、俺はこいつと同じクソ野郎になってしまう」
「ここではその言葉遣いはやめよう。頼むよ」
「失礼」
五秒が経った。
「もう一人の潜入工作員はどこに消えた?」
「それはニセ情報だ。趙さんも踊らされたな。この国には俺一人で来た」
更に三十秒が経った。二人の男と一人の女は、その間小指の先すらも動かさなかった。
「なあ、ヤマダ」「何だ?」
「今日、晩飯を食おう」
「何を言ってる?」
「夕食に招待したいと言っている」
大勢の人民が背後を通り過ぎていく。花束を捧げ、深くお辞儀を繰り返す彼らは、首都に来た高揚感は一様に発散しているものの、心底嬉しそうな様子には見えなかった。
「あんた保衛部の有名な捜査官じゃないのか」
「断れば今ここで逮捕する。撃ってもいい。俺はまた株をあげる。隣りの夫人は無論、収容所行きだ」
それが本音かハッタリか、しかしここで賭けに走るのは愚の骨頂だ。
「-分った。何時にどこへ?」
「平壌には詳しいか?」「全然」
「凱旋門は分るか?」
隠れ家の近くだ。工作員は小さく頷いた。
「五時半だ」
「あんたは大丈夫なのか?俺なんかと会ってるところを誰かに見られても」
「自分の心配だけしてろ」
趙秀賢は銅像に一礼した。相慶たちもそれに倣う。
「逃げる自信があるなら今すぐこの町から消えていい。その代わり絶対に逃げ切れ。確約できないなら、夕方必ず来い」
趙秀賢はもう一度、今度は深く一礼し、きびすを返して丘を降りていった。
相慶たちも早足にならないよう意識しながら、その場を離れた。
「何がどうなっているの?」
「俺にも分らない」
二人は後ろを振り返ることなく黙々と丘を降り、仁興通りにある隠れ家へと急ぎ、昨日「掃除」を済ませておいた北向きの三畳部屋で一息ついた。
盗聴器については心配せんでええ。
出発前、そう朴泰平は繰り返していた。
「長らく問題のなかった、しかも人間が常在している訳ではない総連幹部用の部屋にまで盗聴をしかけるほど電力事情にも人的資源にも余裕はないで」
果たしてその言葉を信じ切っていいのか。現に俺は今日、尻尾を掴まれた。
ビルの八階、出口は一つ。この部屋を急襲されたら逃げ道はない。
そしてもし、実はここも監視されていたとしたら?
この日は総連から来朝者の予定はない、なのに便所からは水の音が流れている、とでも監視が気付いたら?
相慶は抜き足でリビングのテーブルに向かった。某革新政党の党首が微笑むチラシの裏に書いた昨日のメッセージはそのまま残っていた。ソウル在住のボランティア李昌徳はまだここに来ていない。相慶は言葉を書き換えた。
『クライフの映像を見た。一点は取ったが決定的なチャンスを二つ外した姿を見るに、現代サッカーではついていけない気がする』
そしてゆっくりとリビングを見渡す。心なしか昨日より部屋の気温と湿度が下がっているように、その時点でようやく気付いた。空気中の淀んだ粒子が減っているようにも感じられる。
部屋内の様子は何も変わらない。椅子の位置もそのままだ。
神経質になっている自身が生み出した幻覚なのだろう。しかしそれでも、誰かがそう遠くない時間にこの部屋の窓を開けた跡のような肌感は、全身を纏わりついて離れようとはしなかった。
チャンスクに小声で告げる。ここを出よう。
趙秀賢が平壌駅に戻った時、二人の平壌保衛部捜査員は一人しか残っていなかった。その彼が親指で、背後にいる張中尉を指した。
「また騒ぎやがったんですよ。今度こそヤマダだと。仕方なく相棒が追跡中です。結果なんて明々ですがね。副局長はどうでした?」
趙秀賢は苦笑いを作って、捜査員の肩をねぎらうように叩いた。
「俺もハズレだったよ」
二人は新婚旅行者の典型的な観光コースを歩き、表情だけはにこやかに保ちながら言葉を交わした。
「五時半からの会合は、俺一人で行く。君にはさっきの部屋の鍵を渡す。絶対安全とは言えないが、他に選択肢がない。一両日中または既に、李昌徳というソウルの男が中国の丹東から貨物列車の中に隠れて新鴨緑江大橋経由で安州に入り、平壌へ移動後、あの部屋に立ち寄る手筈になっている。善意だけで肉づけされたような奴だから信用していい。彼はこちらでの活動を終えたら同じルートで戻る。今まで見つかったことはないそうだ。君は部屋で待機し続けろ。電気は点けず、大便は我慢して小便は流すな。彼とコンタクトが取れ次第、一緒に帰りの貨車に乗れ」
チャンスクは笑みを顔一杯に広げ、それでもその目は据わっていた。
「かよわい女は逃がしてやった、と思いながら自分は銃殺隊の前に立つってことね。私はあんたの最後のマスターベーションの道具?」
「難しいことを言わないでくれ。俺は自分の意志でこの肥溜めに飛び込んでクソをかぶった。でも君は違う。俺のために騒ぎに巻き込まれて、今ここにいる」
「偶然だね。私も今ここにいるのは、全て自分の意志なんだけど」
二人は大同江のほとりに出てきた。さすがに伐採を免れたポプラ並木の葉を、川を渡る風が揺らしている。
ここが独裁者に統治された収容所国家の首都でなく、そして俺たちが本当の恋人だったらどんなに素晴らしいことだろう、と相慶は想像した。もしそうなら、俺たちは一体どんな言葉を囁き合い、どんな風に笑い合い、そして時に、どんな風に口ゲンカをしていたのだろう。
「どのみち元山のジャンマダンにいても」彼の思索は彼女の言葉で遮られた。
「数年のうちに死んでいたよ。性病にかかるか、クスリ漬けのロシア船員に刺されるか、体制側の連中に体を開かなかったことを理由に行政秩序違反罪を言い渡されるかして。相慶オッパ、あんたなんかには絶対に分らないでしょうけどね、元山を逃げ出して今ここにいる足かけ四日間は、私が自由に生きることができた、今までの人生で唯一の四日間だったんだよ」
二人は手を繋いだ。俺達は新婚旅行真っ最中の夫婦だ。これが反革命行為だと言う奴がいたら、俺はこう返してやる。
そんな革命なら、クソくらえだ。
「常に誰かを批判し、常に自分を批判し、食べたいものも食べられず着たい服も着られず行きたい場所にも行けない。ただひたすらカネで自分を買いにくる男のために化粧して、乗っかられて。たとえ生き残ったとしても、客引きの婆さんにでもなって余生を過ごすのかな。そんな人生を六十年送るぐらいなら、この四日間は楽しかった、誰もこんな経験はできなかった、と笑いながら二十四年の人生に幕を引くのを、私は選ぶよ」
「チャンスク」
相慶は彼女の手を握る自分の手に力を込めた。
「俺は今回の工作資金として、三万ドル持ってきている。幾らかは使ったけれど、九割以上は残っている。中国に逃げられれば、贅沢しなければ十年は暮らせる。四日間どころじゃない、ずっと君は自由だ。中国で勝ち取れる自由がどれほどのものかは疑問だが、それでもこことは比べものにならない」
チャンスクは立ち止まった。
「三万ドル?何で最初にそれを言わなかったの?ほら、早く鍵をちょうだい。あんたのことは毎年五月になれば思い出してやるから」
彼女は男の手を振りほどき、数歩進んで振り返った。
「-とでも私が言うと思った?」
そして彼女は少し寂しげに笑った。まあその気持ちも完全否定はできないけど。
「でもね、それはやっぱりあんたと、日本であんたを待っている仲間のカネだ。私が働いて稼いだものじゃない。そもそも自由は金銭と引き換えに手に入れるものではないし、手に入れるべきものでもない」
「-そうだな」
「ねえ、新坪のダムを覚えている?」
「つい二日前の朝のことだろうが」
「綺麗だったよね」
「そうだな。霧の切れ目から、向こうの山が見えて」
二人は夕焼けに染まる、大同江のゆるやかな流れを眺めた。
ずっと眺めていたかった。