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「平壌へ至る道 潜入編」(5)

 瞬間、二人の部下と事情聴取にあたっていた趙秀賢はそっと口元に人差し指を置き、盧はその意味を察した。
 趙は部下たちに休憩を与え、この重すぎる面倒を抱えてきた面倒な捜査員と二人だけになった。
「時計は本物か」
「断言はできませんが、それを疑う余地はありませんでした」
「そうなると、そいつはチョッパリ-日本人-ではない、という公算が大きくなる」
 金日成から下賜される金の腕時計は、南鮮への潜入中に捕獲されても非転向を貫いた者、主体思想の宣伝に貢献した者、コメや鉄鋼の生産拡大に寄与した者、だけに与えられる訳ではなく、寧ろそうした者は極少数で、しかもそんな真っ赤な愛国者がこんな騒ぎを起こす蓋然性はゼロに等しかった。
 あの独裁者親子に現ナマを貢いだ者もまた、金時計をその手首に巻く栄誉を授けられるのだが、彼らを満足させる献金額を、この共和国内で稼ぎ出せる人民などいない。といって共和国外の居住者で二千万円以上の寄付に快く応じるような奇特者はこの惑星に―そう、在日朝鮮人しかいない。
「副局長のお見立て通りです。奴は朝鮮籍の日本在住者、つまりパンチョッパリでしょう」盧も断言した。
 趙秀賢はその前日の夕方、元山特別軍区第二十四師団の建物内で交わされた国際電話での会話を思い出した。
 師団の通訳、崔少尉が、この工作員を送り込んできた日本のヤクザ組織に抗議の電話をかけた時、受話器の向こうで相手はこう答えていたではないか。
-あの酒は、どうも朝鮮産の米が混ざっているらしい。
 その時に気付くべきだった。結局それが俺の実力なのだ。
 気を取り直すように、元山保衛部副局長は机を挟んでうなだれる部下に質問を続けた。 
「金時計の型番は?」
「調べる前に倒されました」
「盧一権」趙秀賢は努めて静かな口調で指示を与えた。
「腕時計は偽物だったことにする。この件についてはこれで決着だ」
 盧は頷いた。自分も二度と、誰にも、そのことは喋らない。
「とりあえず男女二人組の足取りを追う。オマエの協力が必要だ。処遇はこの件が終わってから決める」

 明け方、ジャンマダンにも捜査員が急行した。木炭トラックを運転しながらやってきた男たちは一様に、昨晩そんな男女を乗せた覚えはない、と主張した。
「俺は昨夜、アジュモニを二人乗せただけだ。若い男女?知らんね」
 朴尚民は、保衛部員にそう答えた。
 容疑者は、忽然とこの町から姿を消したのだ。

 結局一睡もできなかった。
「スヒョン、俺はどうすればいい?」
 明け方、趙秀賢は自分の親友を自称するこの軍人に、初めて声を荒げた。
「その呼びかけはやめろ。イライラする」
 朝鮮人民軍元山特別軍区第二十四師団の張仁錫中尉は、弾かれたように立ち尽くした。
「済まない。本当に申し訳ない」
 情緒の安定を完全に失い、容易に涙を流すかつての戦友の肩に、趙は手を置いた。宿命的敵国を相手にした覚醒剤取引の指揮を命ぜられるほどには上からの信任も厚かったはずのこの男から、一晩でその面影は消え失せてしまった。
「奴は相当、高い能力の持ち主だ」
 しかし、と元山保衛部副局長は続けた。
「それほどの男が、東北部の羅津、先峰の経済特区が目的地であると匂わす言葉だけは、やけに残している。そこに作為的なものを感じるが、裏の裏を掻いた真実でもあるかも知れない。ただ少なくとも、この国での身元保護人でもあったオマエたち第二十四師団から自主的に離れ、保衛部員まで襲撃した以上、奴らは既に元山を離れているものと考えるべきだろう」
 潜入の目的は不明だが、その語学力といい格闘術といい、わずか二日でソラと呼ばれる強情な娼婦を―彼女自身の意志は不明だが―同行者に仕立てあげた手腕といい、油断のならない相手であることに変りはない。
「しばらく朝鮮人民軍第二十四師団を保衛部に組み込み、合同調査隊を編成し追跡チームを二手に分ける。第一班は容疑者と最も言葉を交わしたおたくの崔少尉を、実際に尋問を行ったウチの盧捜査員と共に羅津の経済特区に向かわせる。俺は第二班を組織して平壌に赴く。外国人がこの国で何らかの工作を行うとすれば、その候補場所の筆頭は平壌だ。二人組の男という情報が本当なら、二手に分かれて何らかの破壊工作を各所で起こすことも考えられるからな。張中尉、あんたは彼の顔を知る数少ない証人の一人として、俺に同行してもらう。異存あるか?」
 張中尉は激しくかぶりを振った。
「軍には追って我が保衛部の第一副部長から仁義を切って頂く」
 趙秀賢は平壌の保衛部を率いる雲上人に電話をかけた。
「元山の趙秀賢だ。第一副部長に代わってくれ」
 回線は直ぐにつながった。
「朝早くに申し訳ございません、副部長。日本のスリーパーから報告のあった工作員の件ですが―はい、そうです、どうやら噂だけではないようです。羅津、先峰に向かうとの由ですが、それが陽動である可能性もあります―ええ、副部長も同意見なら心強い。これから私は平壌に伺います―はい、もちろん指揮権は平壌側にあります。ただ私は容疑者の顔を知る証人を連れていきますので、微力ながら何らかのお手伝いはできると存じます―はい、ありがとうございます、感謝申し上げます―訓練と称し非常線を張る?-なるほど、さすが第一副部長だ。その手回しの良さと思慮深さは私も学ばねばなりません―はい、それでは」
 電話を切った趙秀賢は、張仁錫中尉を部屋から追い出し、部下に虚偽の無線連絡を立て続けに行った。
「盧一権が襲われたというのはガセネタだった。奴はただ元山駅から逃げ出した挙動不審者を夜通し尋問していただけだ。報告が遅れたのは𠮟っておいたが、熱心な職務への取り組みゆえの勇み足だ、その革命精神は尊重しれやらねばならん」
「在日のパンチョッパリが元山で過ごしたというのも誤情報だった。但し俺自身は引続き、元山から平壌方面に逃亡したと思われる別件政治犯の追跡を行う。皆も警戒心は決して解いてはならない」
 今度は符牒を敢えて使わず、部下たちはその意図を即座に理解した。その他の能力はともかく、そうした機微だけには敏感な触角を持つことで、彼らは今なお生きて呼吸していられる。

「このバス、中国人の観光客用だよね?私、商売柄ロシア語と中国語は少し話せるよ。詳しいのはあっち方面の言葉ばかりだけれど」
 朝日が上り、チャンスクは用足しに出かけ、戻ってきた時のその口調からは、深夜まで多くを語り合い、少しは胸襟を開けた印象の名残は微塵も感じられなかった。別に何かを期待している訳ではないが、と相慶はひとりごちた。
 昨夜の彼女の言葉は正鵠を射ている。男ってのは本当に甘い生き物だ。
「とりあえずバスを降りよう」
 二人は外に出た。ダムの水面が朝靄の向こうで揺れている。
 幾重にも重なった山の稜線が、紫色のグラデーションに染められ、朝日に照らされ始めた空の底を彩り始めている。まさに山水画の世界だ。
「こんなに美しい国なのに」
 チャンスクはぽつりと呟いた。

 それから一時間、彼らは車両から少し離れた場所で待った。
 運転士がやってきた。二人。星は自分たちに向いているのかいないのか。
 しかし、ここまで来れば後は行動あるのみだ。元山の娼館、チャンスクの部屋でもらった元山市民の平均的な服装に身を包んだ相慶は、「妻」を引き連れ運転士たちの前に速足で歩み寄った。
 揃って足を止めた運転士に向かって、相慶は愛想笑いを浮かべた。おはようございます。
 相手は一言も発しなかった。
「昨夜、僕たちは新婚旅行で平壌からやって来ましてね」
 相慶は砂利を敷いた駐車場に一台だけ停められていた自家用車を指さした。あの車で来たんですがエンストを起こしましてね。とりあえず一旦平壌の所属部隊に戻り、修理工場の人間と一緒にここに戻ってくる他ないんですが、どうでしょう、荷室の中で構いませんから、私を平壌まで連れてってはもらえませんかね?
「俺は元山に向かう」
 運転士Aはそれだけ言い捨て、手前のバスに歩み寄り、出発前点検を始めた。
 運転士Bは無言のまま、じっと相慶を見つめた。
「カネなら払います」
 運転士Bは疑わし気に尋ねた。昨日はこのホテルに泊まったのか?
「もちろんです」
「あんたの名前は」
「金明国。朝鮮人民軍の少尉です」そう答えながら相慶は二枚目の公民登録証を取り出したが、運転士は遠目に冷えた視線を送ってくるだけだった。
「ホテルに戻り、そんな宿泊者がいたか、本当に確かめてくる」
 回れ右して歩き始めた運転士に、慌てて声をかけようとした相慶の袖をチャンスクは引っ張り、その耳元で囁いた。「一旦退却しましょう」
 
 失礼しました、と詫びながらチャンスクは「夫」の手を取り、自家用車のある場所へと戻っていった。建物へと向かいかけていた歩みを止め、運転士はその様子をねっとりと眺め続けている。
「こうした外国人にも開放している宿泊施設に限っては」チャンスクは自分たちの会話が第三者に聞かれない位置まで移動したタイミングで、前を向いたまま相慶に国内事情を解説した。
「こんな時代でも、予約がなければ泊まれない。正式な夫婦であるというお墨付きの、あなたの『職場』の総務から発行された通行許可証つきでね。あの運転士にこれ以上の行動を起こさせてしまったら、私たちは面倒な状況に追い込まれることになる」
 彼らは誰かの自家用車の真横に到達した。
「運転士、まだ私たちを見てる?」
「ああ、見てる」
「ねえオッパ、この車のボンネットを開けてよ。私たちがこの車でエンストを起こしたことになっている以上、エンジンの様子を確かめるフリぐらいしなさいよ。オッパは昨夜、バスの扉は開けられたでしょ?」
「残念ながら、この車は外からじゃ無理だ」
 相慶は車の下に潜り込んだ。「これぐらいしか誤魔化す方法はない」
 
「お客さんが乗ってくる。中国人ご一行様よ」
 十五分後、運転手Aが運転する元山方面へのバスが、三十二人の団体客を吸い込んで、東へと出発した。
 相慶は自家用車から這い出し、チャンスクに止める暇も与えず、バス一台がそこに残された場所へと再び走り出した。
 ドライバーズシートで待機していた運転士Bが、咥え煙草のまま車両から降りてくる。
「おい、しつこいぞ、オマ」腹に衝撃が走り、彼はその場で倒れ、嘔吐した。
 何が起きたか分らなかったが、何かが起きたことは分った。
 さっきはへらへらと同乗を頼んできた自称平壌の軍人が、一転して周囲の全てを焼き尽くすような殺気を放ちながら見下ろしてくる。
「もうすぐ客が来る。入口で吐いてる場合とちゃうやろ」
 そして運転士の脛を蹴った。被害者は苦痛に呻いた。
「もう一度言う。俺たちを荷室でいいから乗せろ。今度は依頼じゃない、命令だ」
 
「ねえ、荷室じゃなくてもよかったんじゃないの」
 チャンスクの肉の薄い体では骨にまで振動が伝わるようだった。
「中国人観光客や添乗員に顔を見られる。一時間半の我慢だ」
 車両が動き始めた。視界を占めるのは暗黒だけだ。それでも車が高度を下げているのは淀んだ空気にこもり始めた熱が教えてくれた。何度も唾を呑み込み、耳に空気を通そうとするが、昨日の朝から水分も食事も摂っていない。乾いた口から唾はもう出てこなかった。
 道路の舗装状況が良好だった点だけが、彼らの痛みや不快感をいくばくかでも軽減してくれた。いつかこの国に民主的な政権が樹立され、人々が自由に往来できるようになれば、俺も荷室ではなくバスの客席に座り、コーヒーでも飲みながら印象的な風景がめまぐるしく展開しているに違いないこの道を再び旅することができるだろうか、と相慶は考えた。
 一時間ほどして、バスが止まった。荷室の扉が開いて、日の光が飛び込んでくる。眩暈がした。
 運転士がそっと荷室に乗り込んできた。朝の居丈高な態度はすっかり鳴りをひそめている。
「平壌に着いたのか」
 運転士は首を振った。まだだ。ここで降りてくれ。
 なぜ?と相慶が近付くと、相手は怯えたようにその距離だけ下がった。
「観光客は?」
「トイレ休憩だ」
「どういうことか説明しろ」
「対向車がパッシングで合図をくれた。平壌は非常線が張られている」

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