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作家の午後の詩の海

第一部 作家の午後

昼にリクエストしておいたイカの刺身が幾分ネチョっとしており大作家椚澤悶土のテンションはダダ下がりであった。贔屓にしている魚屋が去年の暮れに脳卒中でポックリ逝ってから椚澤氏はしばらく新鮮な海の幸から遠ざかっていた。年寄りの癇癪持ちは手に負えないというが、椚澤氏の癇癪は常軌を逸して激しかった。お手伝いさんの桶川さんを内線電話で呼びつけて件の魚屋の「宇尾繁」に電話をしてください、と静かに命じる。桶川さんは土佐地方出身の烈女で、椚澤氏に輪をかけて激しい性格だったからご自分でおかけくださいと30年仕えてきた主人の指示を突っぱねる。椚澤氏は、そうですか、とだけ言ってから目を丸くして老女のお手伝いさんを見つめる。桶川さんはいつの間にかこんなに老女になっているとは知らなかったと老作家は感じる。そして椚澤氏は桶川さんに暇を出したのであった。桶川さんは上等だクソジジイと言い中指を立てて辞めた。椚澤氏にとって駆け出しの作家だった大昔に、新聞社の金でニューヨークへ取材旅行した時に受けた以来の中指の洗礼であった。

一日が経ち誰もいない家で、困ったことになったと老作家は頭を抱えた。すぐに既に引退した仲の良い元編集者の男に電話をかけてみたが、桶川さんに謝って戻ってきてもらいなさいと一点張りで話にならない。誰があんな中指立てる様なクソババアに死んだって頭を下げるもんか、ここはニューヨークの場末のストリップ小屋じゃねえんだぜと椚澤氏は考える。老作家は箱根の老舗旅館の末の三男坊で洗濯も料理も掃除もできない。プライドは売るほどあっても生活力がゼロなのだ。

見た目だけでいうと、深い皺と薄い髪と姿勢の悪さのせいで椚澤氏は80歳に見えるくらい老け込んでいたが、実際のところはまだ64歳なのだった。老いさらばえた身体に反して心は中学生で成長が止まっていて、何をするのもおっかなびっくりである。近所のスーパーに買い物に来てみたが、レジ打ちのおばさんから指定された料金支払い機の使い方も知らなければ銀行のATMもまともに使用することができずに少しだけ電柱の陰で泣いた。椚澤氏は普段己の作品に出てくる様な大人の男とは真逆の鼻垂れ小僧でしかなかったのである。美しい詩もハードボイルドな男女の切なすぎるやり取りも、彼には見知らぬ話、創造の産物だった。耽美作家椚澤悶土と現実の後藤則夫とは程遠い世界の住人なのだ。何を隠し立てしようか、椚澤氏は64歳の今でも現役バリバリの童貞なのである。


第二部 詩の海

葉月さん、とか細い声で椚澤氏が声をかける。井野葉月は笑って振り返りノリちゃん声ちっさと言い返す。井野葉月は大作家の半分の年齢であり32歳だったが見た目は大学生といっていいくらいに若く、傍目には祖父と孫が連れ立って歩いているようにしか見えなかった。老いた耽美作家と偽物の孫がゆっくりゆっくりと天橋立の緑道を宿に向かって歩いて行く。清々しい秋晴れの空の下、老大家にとっては人生最良の日に相応しい日である。

話を1ヶ月前に戻そう。お手伝いさんの桶川さん退職から数週間が経ち進退極まった椚澤氏は乾坤一擲、作家生活の全てをかけた桶川さんに対する謝罪の手紙を便箋10枚に渡って涙ながらに書き記しポストに投函するに至った。投函から一週間経った。残念ながら待てども暮らせども桶川さんからの連絡はなかった。噛み砕けば中指の件不問に処し手当も二倍払うという様な内容が高飛車過ぎたのかもしれない。田園調布の老作家の家は既に荒れ果てて、小蠅があらゆるところを自由闊達に飛び回っており、椚澤氏は無精髭を生やして身体中から酷い臭気を発していた。こうやって終わるのか、と自暴自棄になった椚澤氏は遺書らしいメモ書きさえ走り書いたり頻繁に声をあげて泣いたりした。椚澤氏に後悔があるとすればそれはひとつだけだった。彼は本当の恋がしてみたかった。100%現実のこちら側で。だがもう何もかもが遅い。次に生まれ変わるなら僕は羊飼いになろう、と椚澤氏は思う。惨めな境遇ならば童貞であることはむしろ誇りになるかもしれない。忘れもしまい、あれは目を閉じて黄昏ていた午後3時15分のことだった。唐突にチャイムが鳴って、乱暴に扉を叩く音が聞こえたのは。

「後藤則夫さんですね?」今や椚澤悶土の自宅に来るのは編集者だけであり、最後に原稿を書いてからもう既に三年以上仕事らしい仕事はしていなかったから訪問客など絶えてなかったのである。扉を開けると若くて小柄な女性が立っていて、手には大きな荷物を二つ持っている。「伯母の桶川充子の紹介で後藤則夫さんのお世話を伯母同様に住み込みでさせていただくことになりました。井野葉月と申します」椚澤悶土こと後藤則夫はその場でくずおれて泣き出していた。

「初対面のあの時のノリちゃん、怖かったなあ。呆けたのかと思って」井野葉月は言葉使いの荒い運命の女だった。井野葉月は地下アイドルを10年やって芽が出ずに郷里にも帰れず同棲相手と別れ話になって進退極まったところに、老作家の家のお手伝いさんとしての住み込みの生活を手に入れた。伯母によれば偏屈で気の利かないジジイだからムカつくだろうけど、ケチでもなければ助平なジジイではないからそこだけは安心してくれとだけアドバイスを受けた。ジジイの書く小説は綺麗だけど、ジジイは小汚くて気の弱いただのジジイで多分童貞だわあれは。井野葉月は枯れ専の気があり,多少その手の期待はあったがお相手が真の変態であることを知って少し残念に思う。全盛期の井野葉月はホストと付き合って愛人関係の禿げ頭の会社社長が3人いた。50代や60代の性欲がまだ枯れていないことなど百も承知でこの仕事に飛びついたというのに。

それでなぜ今この二人が天橋立の緑道を歩いているのかというと、面倒をみるうちに情がお互いに湧いて、ある晩に唐突に椚澤氏が井野葉月に求婚する事件が起き、井野葉月はノリちゃんの頭のネジが飛んだ!とだけ返したのであった。椚澤氏は実際ピュア過ぎたのである。井野葉月は言った。ノリちゃんひとまず私と旅行しよう、それで旅館に行ってからノリちゃんは童貞を捨てて、本当の私を知ってもらってそれからもう一度私との結婚について考えた方がいいと思う、と井野葉月は言った。

第三部 作家の午後の詩の海

後藤則夫にとってこれまで過ごしてきたどんな夜よりも素晴らしい一夜が明けた。普段の井野葉月とは別の顔が作家の真横ですやすやと寝息を立てている。女性の肉体がこれほど美しいものだとは知らなかった。後藤則夫は布団からそっと抜け出すと手紙を井野葉月に向けて最大級の感謝と昨晩の井野葉月が如何に美しかったかを丁寧な文字で愛情を込めて書いたのだった。

自称地下アイドル井野葉月こと佐藤麻衣(32)が警察に任意の事情聴取を受けている間、彼女はまるで犯人のようにしおらしく泣いていた。ネットニュースにはこう書いてあった。有名作家が京都府宮津市の旅館から忽然と消えて行方不明になってから2日後、椚澤悶土こと後藤則夫さん(64)が浜に打ち上がっているところを発見された。死因は溺死であり、宿には遺書のようなものが残されており同じ部屋に投宿していた女性に事情を聞いている。

かつての流行作家椚澤悶土のイカのように白くふやけた遺体の開いた口からは小さな蟹が無数に出てきたという。幸福の味を知った彼は不遇な羊飼いにはなるのをやめてあの美しい小さな赤い蟹に生まれ変わったのかもしれない。(了)

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