見出し画像

映画「スオミの話をしよう」のストーリーから改めて思う、分人主義的人間観

映画「スオミの話をしよう」の宣伝もあり、長澤まさみ三谷幸喜のメディアでの露出が目立つ今日この頃です。この映画のストーリーでまず思い浮かぶのは、平野啓一郎が提唱する「分人主義的人間観」です。今回の記事は、そのようなお話しと、昨今の心がヒリヒリするエピソードを聞くにつけ、この人間観は生きづらさを緩和できる概念だな〜と改めて感じたことを共有したいと思います。

映画「スオミの話をしよう」のストーリーの面白さ


三谷幸喜が、安住紳一郎の日曜天国(TBSラジオ・2024年9月1日放映)のゲストで招かれて、この映画のアイデアを思いついたきっかけを語ってました。三谷幸喜曰く、仕事仲間と家族に対してそれぞれに異なる自分を見せているが、仕事仲間が自宅を訪問し、いざ家族と一緒になった時、その場でどういう自分を見せたらいいか戸惑う時があった。その可笑しさを映画で描きたいと思いついた、とのことでした。

映画では、夫婦関係にあった夫たちそれぞれに異なる自分を見せていた妻スオミが、その夫全員が一堂に会して、そこに居合わせた時、スオミがどんな反応をするかが、クライマックスで描かれているようです。因みに、この程度のネタバレでつまらなくなるような映画は作っていないと、三谷幸喜はラジオで語っていましたので、ご安心ください。それと、スオミはフィンランド語を意味していて、発音も一般的に想像するものとは違うイントネーションでした。発音はこちらで確認できます。三谷幸喜が安住紳一郎に、何度か発音を注意してたのが可笑しかったです。皆さんも三谷幸喜に指摘されないよう気をつけてください。笑)よく耳にする名前だとそこから想像するイメージが先行して観る人が違和感を感じるので、このようなニュートラルな印象の名前を選んだようでした。実在する名前のようですが、よく聞くことはない名前なので、確かに余計なノイズは入らないですね。

一方、長澤まさみは、あさイチのプレミアムインタビュー(NHK総合1・2024年8月30日放映)で、三谷幸喜との仕事は、いつも自分にとってこらから取り組むべき、新しい課題が見つかる。今回の仕事は口内炎ができるほど神経を使った仕事だったなどと語ってました。長澤まさみは、ギャラクシー賞を受賞したテレビドラマ「エルピス—希望、あるいは災い—」(関西テレビ・2022年放映)や映画「コンフィデンスマン」シリーズなど、シリアスものからコメディものまで幅広い役柄で見せている演技力が、この映画でも期待できそうですね。楽しみな映画です。

平野啓一郎の「分人主義的人間観」


このストーリーを聞いてまず思い出したのが、平野啓一郎が提唱する「分人主義的人間観」です。三谷幸喜だけでなく皆さんも、相手によって違う自分を見せていることを実感するときは多いと思います。平野啓一郎はそれを、個人の中で複数存在している「分人」と呼びました。平野啓一郎は小説でもこの人間観を描いています。代表的な作品としては、NHKでもドラマ化された柄本佑主演の「空白を満たしなさい」(NHK総合1・2022年9月25日放映)でしょうか。阿部サダヲの怪演も印象的なドラマでした。

分人主義的人間観を元に、人を殺めたいとか、自身を殺めたいと思うことを説明すると、いずれも自身の中にある「分人」をなくしたい衝動だということになります。人を殺すことは、自分の中でその人に対して見せている「分人」を消したいという衝動であり、自身を殺めたいと思うのは、自分の中に、あって欲しくない「分人」を消したいと思う衝動を意味します。殺人や自死は、いずれも、自分の中のある「分人」を「物理的に削除」したといえるでしょう。一方でこの「分人」は自身の全人格的なものでないということを認識することができれば、「論理的に削除」することで解決できるのではないかということが、この分人主義的人間観が訴えたい視点になります。

恐らく、消したい「分人」が自分にとって全人格的なものではなく、自分の中の一部の側面であると考えられるかどうかがキーポイントになるのだと思います。そのためにはその「分人」を「論理的に削除」しても、残る「分人」で全人格が維持できるよう、その残る「分人」をいかに育むことができるかが、予防措置として大事になります。それを自分自身で育むことができればベストですが、難しければ、他者の助けが必要になることも時にはあるでしょう。

少し話しがそれますが、分人主義的人間観を用いて、近しい人と死別した時の喪失感をより適切に言語化することができます。個人的な話しになりますが、姉が亡くなったときに感じた喪失感は、単に姉がこの世にいなくなったという喪失感というよりも、姉にしか見せていない、自分の中にある「分人」が消えたことの喪失感と言った方が、言い得ていると思います。それは姉としか共有できない思い出話しがもはやできない、自分の中の「分人」の喪失感でもあります。この「分人」は「論理的に削除」したくはないものなので、この喪失感はいつまでも続くものと思いますが、それはそれでやむを得ないことだと思ってます。

分人主義に関しては、平野啓一郎のサイトで詳しく、分かりやすく紹介されていますので、関心ある方は是非こちらも参照してみてください。

心がヒリヒリするエピソードから思う


話しを戻します。最近読んだ、石井光太の『ルポ スマホ育児が子どもを壊す』(2024年・新潮社)で、高校二年生の生徒間のトラブルが引用されてました。Aは進学志望であることを、就職希望である友人Bに言うことができず、これまでお互いにFCバルセロナのファンだったけど、最近Aが格闘技の方が好きになったことをBに言えずにいました。その後、Bは、Bとは共有されていない、Aの持つ他のSNSアカウントの投稿内容で、Bに語られていない事実を知ることになりました。怒ったBはAの学生鞄を踏みつけて、中にあったペンケースやスマホを壊す事態に至ったようです。2人は1年の時からクラスが同じで仲良しでした。

この時の経験を、先生は次のように述べてました。

「決まった顔だけで付き合っていると、別の顔を見た時に『裏切られた』と思うことがよくあるんです。相手を全人的に理解することに慣れていないので、そういうふうに捉えてしまうんでしょうね。」

『ルポ スマホ育児が子どもを壊す』石井光太著(2024年・新潮社)から引用

これは、2023年の新語・流行語大賞にノミネートされた「蛙化現象」の背景とも重なります。「蛙化現象」は一般的には「好意を持っている相手から、逆に好意を寄せられると、途端に気持ちが冷めてしまう」ことを意味する言葉とされていますが、その背景には、SNSのコミュニケーションから得たイメージと、実際に会って感じたイメージが異なることから、直ぐに「騙された」「裏切られた」と受け止めることで起きる現象であるとも指摘されています。

分人主義的人間観からすれば、いずれのケースも、「騙された」「裏切られた」と感じることではない代物です。ただ、この概念を頭で分かっても、そのように達観することは容易ではない事情もありそうです。それは、「分かったことにしたい」「お互いにわからないことを理解していくために多くの時間をかけたくない」というタイパ優先の志向が無意識的に足枷になっているのかもしれませんし、「蛙化現象」という言葉は、それを正当化することにも繋がっていて、そうではない道をいこうとする人は、狭い価値観を持っているけど離れたくないグループから外されてしまう恐れも、足枷の一つになっているかもしれません。それでも分人主義的人間観を認識をすることで、生きづらさを克服できるきっかけになることは期待したいと思います。

概念を複雑化し、より実践的なものにするための、更なる付け足し

概念は複雑化した方がより実践的になるので、もう一つ付け加えたいと思います。ミュージシャンである故大滝詠一の座右の銘に、「期待は失望の母」という言葉があります。表面的に捉えると消極的な姿勢と受け取られがちですが、真意は「相手に期待するような心があるなら自分に期待せよ」ということを意味します。もう少し補足すると、この言葉は優先順位を示しています。自分にも多くできることがあるはずで、まずそれを期待し、それだけでは十分ではない場合は、周りからのサポートを望み、それを期待することはあってもいいという解釈です。周りに何も期待せず、自分だけで全てをこなすことをこの言葉は意味してはいません。

前節のエピソードに適用するなら、鞄を踏みつけた生徒も、蛙化現象の何某も、いずれも「他者に期待したことによる失望」です。その前に自分に期待できることは、他者を全人格的に理解しようとする姿勢なのだろうと思います。いずれも、大滝詠一のいう「期待は失望の母」であることをそのまま実践してしまったエピソードだといえましょう。

もう一つ付け加えるなら、冒頭の節で引用した、長澤まさみ主演のドラマ「ルピナス」に通底したメッセージである「信じることができる人がいる」のは人生においてとても価値があり、大事であるという概念でしょう。そこには何かをしてくれる、してくれないという損得勘定を超えたものを感じます。そういう人がいて、そういう人にしか見せない、そういう人を信じているという「分人」が自分の中にいるなら、きっと他に、不安定な「分人」が時に生まれたりしても「論理的な削除」をすることが容易になり、健やかな人生が過ごせるのではないかと思います。

少し長文のエッセイになりました。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
また次回の投稿でも立ち寄っていただけると嬉しいです。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?