一週遅れの映画評:『青くて痛くて脆い』昭和から令和の間で織り込まれたのは、BL的想像力である。
なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。
今回は『青くて痛くて脆い』です。
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大学生が社会運動系のサークルと関係を持つも、そこにコミットし続ける動機を失って離れる。それによってかりそめのアイデンティティから離れ、自分自身を発見するために苦悩する。
という筋書きを並べると『青くて痛くて脆い』は、私が大好きな三田誠広の『僕って何』は非常に近い作品である。とはいえ片や令和2年に映画化されたもので、片や昭和52年に発表されたものであり、そこには共通点とともに明らかな相違がある。
まずどちらの作品も主人公の最終的な願望は「僕のことを一人の人間として見て欲しい」という部分に集約していく。学生運動の最中に複数のセクトを渡り歩いた『僕って何』の主人公も、肥大化するサークルの中で信頼していた人物の視界から徐々に後退していくことで活動から離れる本作の主人公も、つまるところ「自分を見てくれる」ことを求め、それが失調することで集団から離れていく。
「自分を見て欲しい」というのは普遍性のある自己発見のテーマであり、社会生活の中に否応なく飲み込まれる私たちは他人の視線を介してしか「自己」を見つめることができない。そういった自己完結できない複雑さや厄介さを語る手つきは非常に似ている。
また憧れていた者(少なくとも自分よりは凄い人間だと一目置いていた者)に対する失望が、どちらの主人公のも行動を起こさせる動機となっている。これは先の「自分を見て欲しい」とも繋がっており、誰に見て欲しいのか?つまり自分が凄いと思ってる相手から認められたい/認知されたいという欲望によって駆動していた生活が、その相手の価値が自分の中で失墜することで動機を失い、そこから「見て欲しい人」を探して流浪を始めることとなる。
そして最後に例え自分を見てくれる人や自分の居場所を見つけても、やはり「誰にも理解されない自分」が残ってしまうことである。人と人との関係には、どうしたって「役割」が付きまとう。それは一般的な職業的意味合いだけではなく、例えば親友や恋人といった属性もまた一つの「役割」に過ぎない。だからどんな相手に対しても「役割」以外の自分を見せることはできない(より正確には見せる機会がない、と言うべきだろうか)。それゆえにどこまでいっても「誰も知らない自分」が付きまとう。
こういった共通点を持ちながら本作と『僕って何』は、そこに対する反抗と答えの出し方に差が表れており、そこに時代性を見いだすことができる。
『僕って何』では憧れの対象が失墜することで主人公はその集団を離れ、また別の信じるに足ると思う人物の集団に属しようとする。そこでも再び失望を覚えることで自暴自棄にも近い状態になり、そういった同じ過ちを繰り返す自分に対しての自己嫌悪に駆られる。
一方で本作では失望を繰り返すことはない。一度の間違いにショックを受けた主人公は活動全てから距離を取り、それだけではなく自分を失望させた人物に対して憎悪の感情を抱くこととなる。
自分の失敗が自罰ではなく攻撃に向かう。「認知されたい相手から蔑ろにされ、憧れが消えた」ときに信奉が一気に攻撃へと向かうその心の動きは、「信者からアンチへ」と一瞬で切り替わる現代の消費者像として非常に理解しやすいものだ。
また『僕って何』で傷ついた主人公を救うのは恋人と母親の存在、つまり「性愛と家族」に自分の居場所を発見することでアイデンティティを確立していく。
本作において性愛と家族はかなり後退している。若い大学生の話として性愛は出てくるが、それはあくまで主人公の周辺にある出来事であり、あくまで本人はそこから隔絶されている(あるいは隔絶しているつもりになっている)。作品後半で「そこに性愛があったのか」というような言葉を投げかけれた主人公はひどく狼狽する。それは「自分には性愛は無かった、けれど僕を見てくれなくなった経緯には相手の性愛が絡んでいる」という複雑な関係を一言で説明するのが難しいからに他ならない。この作品が単純な失恋に帰結するのならば、きっともっとわかりやすい感情の話だ。だがここにあるのは双方向の視線がありながら、そこにある感情の食い違いなのだ。
それはつまり「関係性」のお話である。
がっちりと歯車が合わさるように上手くいく。一時的に同調しながらも噛み合わない。理解しながらもすれ違う。同じ場所にいるけど、スタート地点が違うからいつか別れ別れになる。そういった人と人の関係性の機微と複雑さを描いている本作は非常に「BL的想像力」といったものに近いのではないだろうか。
主人公と憧れの対象は男女ではあるが、ここで描かれた関係性の取り扱われかたはBLにおける感情の表現と非常に似ている。BLから性愛の要素を抜いて「関係性の描き方」を取り出したのが、この『青くて痛くて脆い』の根底には流れているように思う。
特に中盤以降に登場する主人公の親友。主人公の復讐に協力しながらも、最終的には裏切りとは言えないぐらいの温度で静かに離れていく。そこにある空気は濃厚にBLの要素を孕んでおり、つまりは本作が描きたいものは「複雑化した関係と、そこに至った感情をどう受け止めるか」という問題であることをあらわしているのである(それは百合作品で言われる「巨大感情」という概念をも射程に捉えてい)。
とはいえ、これが映画として上手くいっているとは言い難い。特に「もし自分が失望せず、彼女から見続けていられたのなら」というifの回想においては、そこに恋愛感情が過分に含まれてしまう。いや、BL的想像力というのならそれは正しいことではあるのだけれども、本作の主旨とはいくぶん離れてしまうように思えた。
そこが残念なところだった。
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この話をしたツイキャスはこちらの13分ぐらいからです。