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一週遅れの映画評:『キミだけにモテたいんだ。』荒ぶらない季節のモテメンどもよ。

 なるべく毎週月曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『キミだけにモテたいんだ。』です。 

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 私はマグロの刺身が嫌いだ。
 何ともいえない酸味を感じてしまって、食べられなくはないけども(というか目の前にあったら普通に食うけど)選べるなら他のお魚にしたい。酸っぱい食べ物は好きな方なので、なぜマグロの酸味だけが苦手なのかは自分でもわからないが、わかったからと言って好きになるわけでもないだろう。
 とはいえマグロが世間的には人気のお魚で、お刺身の盛り合わせにはまずマグロがなくちゃあね的な風潮も理解している。だから多数決を取れば自分が少数派なのも知っている。かといって別段困るわけでも誰かに迷惑をかけるわけでもないので、矯正するつもりもない(新鮮で良いマグロなら変な酸味とか無くておいしいですよ~、と思った人は是非そのおいしいお刺身を奢ってください)。
 
 パクチーが苦手で春菊が好きな人もいる(私はどっちも好き)。トマトが嫌いでイチゴが好きな人もいる(どちらもおいしい)。ホヤはまじ無理って人もいる(磯臭くておいしいよね、ホヤ)。一方でブルーチーズやサンマのはらわたが堪らないほど好きだという人もいる(好き!ってほどじゃあないかな)。
 万人が好む食品なんてもう「砂糖」とか「塩」とかそういうものになってしまうだろ(白砂糖は~とか言う人は帰ってください)。誰もが抵抗なく口にできるということは、抵抗を与える部分が少ない個性の発見しにくい、平坦で癖のないものにしかならないだろう。
 
 本作『キミだけにモテたいんだ。』はそういった個性/没個性の話であり、揺らぐ「私」の変遷を描いている。
 主人公たちは金と名声につられて「モテメン甲子園」に出場することになる五人の男子高校生。そのうち四名において、それぞれ見た目はかなり良いが問題を抱えており(暗い、ガキっぽい、カワイすぎる、他人に興味がない)現状では「モテ」ていない。その問題点を解消し、女性から人気を集めることで「モテメン甲子園」で優勝する、というのが彼らの目的だ。
 
 そもそも「見た目がかなり良い」という部分で強烈なアドバンテージを持っているわけだか、その顔面による優位の”足を引っ張ている”部分を矯正していく過程が描かれる。誰にでも受け入れられるように、「女の子が喜ぶ」ような行動を取れるように。
 洋服選びも「着たい服」ではなく「自分に合うもの」を身に着けるように指導される。彼がどんな意図で洋服を選んだところで(それは実用性重視かもしれないし、目指す自己像かもしれないし、もしかすると異性装かもしれない)それは「モテ」の邪魔になる。顔や身体に合わせた「癖のない」恰好をすることが「モテ」への近道であると告げる。
 
 なるほど確かにそれはある種の正解である。万人に好意を持たれるには「平坦で癖のない」ことが重要だ、多数に「モテ」ることが「モテメン甲子園」での優勝に不可欠なら、その指導は正しい。
 実際に「モテメン甲子園」を勝ち抜いていく彼らは予選、本選、準決勝と順調に駒を進めてついにモテメン甲子園決勝戦にまで辿り着く。『キミだけにモテたいんだ』の中では非常に大きなイベントとして描かれる「モテメン甲子園」、その決勝まで昇り詰めることで主人公たちの「モテ」は加速していく。まともに通学すら困難なほど女性に囲まれ、一挙手一投足に歓声が上がるほどだ。
 
 その中で主人公たちは「果たしてモテることに価値はあるのか?」という疑問を抱くようになる。多数の異性から好意を向けられることは不快ではない、それが望んだ「モテ」だった。しかし本当に必要なのは多数からの好意だったのか?本当に自分が欲しい「モテ」とは、特定の「キミ」からのものではないのか?それがたった一つあれば満足なのではないか?
 
 つまりここで立場は逆転する。平坦で癖を失くした没個性化することによって「モテ」た彼らにとって、自分に好意を向ける人々は「キミ」という個人ではなく、名前も人格も不明な集団でしかない。それは固有名を持たない存在であり、ある種ここまで没個性化を目指してきた彼らの写し鏡でもある。
 その立場になることで彼らは本当に必要だったものが「個」であることに気づく。没個性化した彼らが没個性化した誰かに取り囲まれることで初めて、固有名としての「キミ」が輝いて見えるのだ。
 
 それは「私」というものの揺らぎである。
 「モテ」るために私を捨てたものが、特定のキミを求める。そこで再びよみがえってくる代替のきかない「私」。没個性化を目指した果てに見つけたもっとも輝く宝は、ここに来るまでに捨ててきた「個性」である。というのはいかにも寓話めいているが、それでも若い性愛が持つ迷いの姿であり、揺らぎ続ける「私」を再発見するに必要な過程なのだ。
 
 惜しむらくはこの主人公たちの求める「キミ」が五人ともたった一名の女性であり、しかも「お金持ちだけど朗らかで嫌味なところは無い、少し天然で純真なカワイイ同年代の女子」という、まぁその没個性化したステレオタイプになってしまっていることだろか。
 映画の尺としては短めの53分である本作に、そこまで求めるのは難しいのかもしれない。
 
 なお「性愛と個性の衝突」あるいは「恋に翻弄され見失う私という存在」といった視点から、この『キミだけにモテたいんだ。』で脚本構成および脚本に携わった岡田麿里が、同じく原作と脚本を担当した『荒ぶる季節の乙女どもよ』と比較して見るのも面白いのではないかと思う。

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 この話をしたツイキャスはこちらの22分過ぎぐらいからです。http://twitcasting.tv/spank888/movie/576166822


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