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一週遅れの映画評:『デューン 砂の惑星PART2』運命の足音を。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かして配信で喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『デューン 砂の惑星 PART2』です。

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「デューン!」
 言うてね。いまこう指を鼻の前に持ってきて、そこから何かを引っこ抜くように手を動かして「デューン!」てね。なんか前回も同じことやったな……。

 それはまぁいいとして、映像がめちゃくちゃ凄くてですね。ほぼ9割くらいが砂漠のシーンなんですけど、その砂漠が時には平坦であったり、時には山岳のようでもあり、そして状況によっては海にもなるっていう。変幻自在の「砂」というマテリアルと、その過酷な自然環境で生きる砂漠の民の関係性がまず映像っていう形で説得力を持って展開されているんですよね。
 で、そこには独自の信仰と文化とか、あるいは生態系があるわけで……こういうのを見てると「やっぱSFって最高に面白いぜ!」と気持ちよくなってしまうわけです。
 
 そしてその9割を占める砂漠のシーンで、8割くらいの物語が「砂虫」っていう巨大なモンスターに関する話題だっていうのが。だからあれですよ『デューン/砂の惑星 パート2』は72%が砂虫でできてる映画なんですけどw
 でもね、実際ストーリーを読み解くにあたってこの砂虫がすごく重要な役割を持っているの。そもそもこの砂虫、UMAのモンゴリアンデスワームみたいな(というか『デューン』原作が1960年代の小説だから、たぶんこっちが元ネタなだろうけど)生物で。
砂の中を自由自在に移動する超巨大なミミズ状の生き物なんだけど、先端には櫛状に歯が並んだ巨大な口を持っている。その口で人間大の大きさなら軽く2ダースは一口で丸飲みしてくる危険なモンスターなのね。
 それで彼らは「足音」を探知して襲ってくる。だから砂漠の民は「砂漠トカゲの歩行」っていう、足を引きずったり、不規則にステップを踏んだり、ジグザグなルートで歩くことでその砂虫の探知を躱している。そうやって歩かないとバクゥ! って食べられてしまうから。
 
 そうやって回避するだけじゃなくて、砂漠の民は一定のペースで「トン、トン、トン、トン」みたいに地面を叩く道具を使って砂虫を誘導して呼び出したりする技術を持っているんですよね。これを利用して敵対している帝国軍と戦ったり、砂の海を渡るための乗り物として砂虫を利用している。
 この設定がすごく良くて。主人公は『パート1』でどうなったかと言うと、帝国の襲撃により国がめちゃくちゃにされて王様だった父親も殺されてしまった。そしてこの星に伝わる伝説によると、どうやら主人公は”救世主”なんじゃないか? みたいに扱われつつある。
ここで2つの道が示されるわけですよね。帝国から逃げて隠れながら生きるか、救世主として戦うか。主人公にはちょっとだけ未来を見る能力があって、救世主ルートを選ぶと宇宙全域を巻き込んだ戦争になり何十億人という死者が出ることになる。結局『パート1』ではその選択は保留されるわけですよ、だって「何十億人も死ぬ」結果を簡単に選べるわけないんだから。
 それでも帝国の手は伸びてくるし、砂漠の民は救世主の到来を待ち望んでいる。いつまでも答えを先延ばしにはできない状況にどんどんなっていく
 
 いうなれば主人公には運命が「足音」を立てて迫っている、「トン、トン、トン、トン」って。砂漠の民が使う道具が響かせる足音に砂虫が迫ってくるのと、主人公に足音を立てて迫ってくる過酷な運命が、ここで重ね合うように描かれているわけですよ。
 めちゃくちゃ危険な砂虫という運命。そこから砂漠トカゲみたいに逃げるか、利用して乗りこなすか。つまり”救世主”という役目から逃げるか受け入れるかをいよいよ決定しなくてはならない。そういう葛藤がここにはあるわけなの。
 
 あくまで逃げてきた余所者である主人公は砂漠の民の一員として受け入れられることを望んでいて、この砂漠の民は「砂虫に乗れて一人前」という風習がある。だから主人公はその試練にトライするわけですけど、さっきも言ったようにこの「砂虫」は主人公に降りかかる「運命」と同じ意味を持っている。ということはここで「砂虫に乗ろうとする」ことは、主人公が「救世主になるという運命に乗る」ようになることを、先立ってあらわしているの。
 そこで出てくるのが砂漠の民でもビビるぐらい巨大な砂虫で、しかも伝承によると「救世主は巨大な砂虫を乗りこなした」という記述があるもんだから、これはもう”救世主”ルート確定なわけですよ。
 
 そうやって自分が”救世主”になること、つまりは何十億人が死ぬ戦争に至る運命を受け入れた主人公は、未来を予知する力を完全なものにするため伝説で語られてる街へ向かう。そこは強烈な砂嵐で守られているんだけど、砂虫に乗れば安全に通過できる。
つまりは自分の運命に乗る=砂虫に乗るという図式がここでも強調されているわけですね。
 
 そして手に入れたはっきりと未来を予知する力によって、自分の行動で起きる戦争とその被害をより鮮明に知った主人公は、それでも”救世主”になることを選ぶ。これって『パート1』でやったことの更なる強化なんですよね、『パート1』では1対1の決闘を行い相手を殺すことで「救世主になるってことは、これからこういう死をたくさん作っていくことだ」と思い知らされる。そして今回は予知能力によって、その大量死がこの運命に従う限り避けられないことだと思い知らされる。
 
 ただそれだけじゃないんですよ。
 私は『パート1』のとき、その人が沢山死んでしまうことよりも、いままで友のように接してきた仲間が「救世主とその下部」という関係になってしまう。つまり友人という存在はもう得られないことの方が、よりショッキングに描かれている……って批評したわけですが(それは冒頭辺りに貼った前回の『デューン』評を読んでね)、その部分も『パート2』ではより強烈に描かれている。
 主人公は砂漠の民と生活するうちに、ひとりの女性と愛し合うようになるんです。未来予知の力を得るために死にかけた主人公を救ったのもその娘で。
 だけどこれから帝国と宇宙を巻き込んだ戦争をはじめるにあたって、現状ではまったく戦力が足りてない。だから主人公は帝国から見限られたけど、まだまだ力を持っている国の王女と政略結婚することを選ぶんです(しかもその愛し合ってる女性もいる場で!)。
 
 『パート1』では「もう友人という存在はいない」というのを見せ、『パート2』では「自由に誰かを愛することさえできない」ことが描かれる。主人公の状況を取り巻く「救世主」という役割が、戦争の拡大と同時にその生き方そのものを深く縛っていく。
 ”救世主”として求められる正しい行いが、大量の死者を作り、自分の幸福すらも遠ざけていく。それでも帝国の圧政によって苦しむ星の人たちのために”救世主”という運命に従うことを選ぶ。
 『パート1』『パート2』どちらも、この「選択することに伴う責任と代償」って話でビシッと1本芯が通っていてすごく面白いし、この延長線上にある完結編がとても楽しみなる作品でした。
 
 ……冒頭ナレーションの「この世界ではスパイスを手にするものが勝者になる」で、ちょっとリリスパこと『RELEASE THE SPYCE』を思い出したのは、秘密だよ!

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 次回は『映画おしりたんてい さらば愛しき相棒(おしり)よ』評を予定しております。

 この話をした配信はこちらの15分ぐらいからです。


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