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一週遅れの映画評:『ふれる。』コミュニケーション・パンチを喰らえ!

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かして配信で喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『ふれる。』です。

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 いやすごかったね。私は岡田麿里作品をそうと意識して追ったことないから、実際はどうかわからないけど、直感的に「岡田麿里史上もっとも女を殴ってそうな男性主人公」でしょ(ここまで喋ったところでちらほら反例っぽいものが脳裏をよぎったけど無視するね)。だってあんた、多少嫌味を言われたぐらいで「友人の勤め先の上司」をブン殴ろうとしてんだもん。あまりにもバーサーカー過ぎるでしょ。
 そして何よりこの作品自体が「殴打の純粋性」を半ば肯定していて、私自身は暴力の徒なので正直、その、大声では言えないですけど実に「良かった」と思っていますよ。

 ざっくりお話を説明すると、離島で生まれ幼少期から一緒にすごしてきた男の子3人。彼らはハリネズミに似た奇妙な小動物「ふれる」の力で、肉体が接触していればお互いの考えていることが直接伝わるようになっていた。成人した彼らは島を出て東京でルームシェアしながら暮らし、それぞれの生活をしている。
 そこにストーカー被害から逃れるため、女性2人が同じ家に住むようになる。円満にいっていたかのように見えていた彼らの関係は、それを契機に少しづつ変わりはじめる……って感じなのね。

 いやまぁ、無理だろ。とw 男3人で暮らしてるところに女2人が入り込んだら、そらサークルクラッシュするってw というのは見えてる流れなのでどうでもいいとして。
 ごたごたしてる中で判明するのが「ふれる」によって与えられた能力が、お互いの考えてることをそのまま伝えてる「のではなく」、その思考から関係性に不和を与える要素を取り除いたものだけなのね。だから手を繋ぐと、相手の考えてることのうち「悪意を取り除いたもの」だけが伝わってくる。それによって3人とも、自分は悪い考えを持っているのに、コイツらはなんて善良なんだ! と思ってしまってるわけですよ。
 そこで起きる齟齬、つまり自分の思ってることが全部伝わってるのではなく、ごく一部しか伝わっていないことを理解していないのが原因で彼らはすれ違っていく。特に女絡みで、同じ相手にふたりが惚れてるって状況は関係性に不和をめちゃくちゃ起こしてしまいかねない。お互いに自分の気持ちを相手が知っていると思っていて行動するから、それによって結局は大きな諍いになってしまうのね。

 で、隠している悪意の容量がぱんぱんになってしまい「ふれる」は暴走しちゃう。体から白い糸を大量に発生させて街中にばらまいてしまう。その糸に触れた人間は、考えてることが(今度はフィルターなしで100%そのまま)伝わってしまうようになっちゃう。それによってあらゆる場所でケンカがはじまったり、その一方でお互いの気持を探り合っていた男女が急接近したりするわけ。
 ここがめちゃくちゃガンダムというかニュータイプ論みたいになっててさ。宇宙世紀のガンダムにおける「ニュータイプ」って「他者と誤解なく分かり合えるようになる」人類の進化とされていて、結局は誤解なく分かり合えたとしても、というかだからこそ「相容れないもの」がくっきりはっきりしてしまうことで争いは避けられないみたいな話に着地してしまうわけですよね。このシーンをシロッコが見てたら「生の感情丸出しで戦うなど、これでは人に品性を求めるなど絶望的だ」って言われちゃうよぉ!

 しかしですね、現代社会の人間はかなりちゃんと品性を備えているので、日常生活で”生の感情丸出し”になんてまずしないのよ。誰だってある程度「これは言っていいな」とか「このことは黙っとくか……」みたいな調整を当たり前に行っているわけですよ。
 だから「ふれる」の能力って、誰もが普通に動かしている機能のアウトソーシングでしかない。それが理解できた主人公たち3人は「いままで俺たちは楽していた」って言うわけです。「ふれる」の能力は、悪いことでも良いことでもなく、ただ自力でやらなきゃいけないことを「ふれる」に任せてサボっていただけだと。
 ここすごく良いと思うんですよね。あけすけに正直になることは正しくないし、かといって本心を全部隠すのも違う。拙いコミュニケーション能力だったとしても、それをなんとか使いこなしていくことで言えること/言えないことを自分で決定していくことの重要性を再確認していくわけですから。

 その上で、どうしたって口下手な人間だっているし、私なんかもそうですけど色んな都合で口頭でのコミュニケーションが難しい人だっている。そのときどうするかって言うと「行動」で示すしかないんですよね。
 そもそも「ふれる」の能力って肉体接触が必要なんです。それは逆説的に「ふれてくるということは、何か伝えたいことがある」というサインになっている。コミュニケーションのきっかけとして「あなたに言いたいことがあるよ」というのって、結構難しくて。それを”ふれる”ことで意思表示できるというのが、言えないことは「行動で示せ」という結論を先取りしているんですよね。

 で、これが最初に話した「殴打の純粋性」につながっていくわけですよ。嫌だったり気に入らなかった言いなさい、もし言えないなら……殴れ!! みたいな話になっている。だからお互いに不満をぶつけてケンカして、そこから和解した主人公たちのひとりが「改めて、友達になってください」と言ったあと「友達になってくれなきゃ……殴る」って言い放つんです。
 もうめちゃくちゃ、めちゃくちゃなんだけど「暴力をふるいたいくらい、お前らと友達になりたい」っていうのは、この「行動で示せ」の世界では大正解になるのね。そして私は「人間の内心なんてわかんねぇんだから、やったことで判断するしかねぇよな」と日頃から考えているので、この「ラブ&暴力」みたいのはものすごく理解できてしまう
 もうね一般常識とか倫理とかとは全然別の話として、お互いに納得しているなら「暴力という相互理解コミュニケーション」というのは決して間違ってないと。そう暴力の徒(どちらかというと”殴られる”ほうが私は好きだったりするのですがwホントは)としては非常に満足できる作品でした。ある種「プリキュアが敵をブン殴る」ことの正しさにも援用できる内容だったんじゃないかな? と思っています。

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 次回は『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』評を予定しております……たぶん前作の映画評を読んどいてもらうと良い気がする。

 この話をした配信はこちらの20分ぐらいからです。


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