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一週遅れの映画評:『あのコはだぁれ?』恐怖はすでに「感情」じゃない。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かして配信で喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『あのコはだぁれ?』です。

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 一昨年だっけ? 翻訳された『ホラーの哲学』って本があって

要は「なぜ人はフィクションのホラーに恐怖を感じるのか?」っていうすごく大前提な部分を解き明かしていく内容なんだけど。すげぇザックリ言うと、見てるホラー映画の内容が「マジ」だと思ってるんなら、まぁ落ち着いて見てる場合じゃないよね。だって本当にゾンビとか吸血鬼がいるんならお前が行くべき場所は映画館じゃなくて警察でしょ? じゃあフィクションだとわかってるのは間違い無いんだけど、だとしたら根本的に「そこに恐怖を感じる」って変じゃんね。だって嘘なんだから、嘘で何が起こっても平気じゃん。
 なのになんで私たちは「怖い」って感じるんだろうか? っていうのの結論として「私たちが恐れているのは”怖いことが起こるかもしれない”という思考そのものだ」って言ってるわけですよ。
 おぉ、なるほど。確かに『ジョーズ』見てて怖いところって、デッカイ鮫がぐわー! 言うて襲ってくる場面よりも、あの「デーデン、デーデン、デーデッデッデッ、デッデッデッデ」というBGMを背負って、海面から飛び出たヒレが近づいてくる時のほうが「怖ぇ!」って思うじゃない? いや、これめちゃくちゃ単純化して話してるから、『ホラーの哲学』はもっとちゃんとしたこと言ってんだけどw まぁ超雑に言うと、そんな感じなのね。

 それを念頭に置いて『あのコはだぁれ?』の画面を(ていうかほとんどのホラー作品に適用できる話ではあるんだけど)見るとさ、例えば主人公がてくてく歩いてるシーンでも、普通の映画ならだいたい画面の真ん中に写ってるわけよ。だけどホラーは違う、主人公は画面の右側とか左側とかに寄っていて、スクリーンの半分はただ背景が写ってるだけなんだけど(例えばこの記事のバナー画像とかみたいに)……ここに「恐怖」があるのよね。
 わかりやすく言えば「絶対このスペースに何んか”来る”じゃん!?」という予感というか「何かが起こる」という思考を喚起させる空間が怖さを生んでる。で、『あのコはだぁれ?』ってずっとその「何かが起こる」を画面上で維持し続けていて……いやすごいよね、そのサービス精神が
 だって怖い映画を見に来てるんだから「ずっと怖くさせてあげよう」って、すっごい偉いでしょ。エッチな動画だから全部エッチなシーンにしようとか、可愛いアイドルのライブだからずっと踊って歌ってファンサもしようとか、ギャグ漫画だから全コマで笑わせようとか、やりたくても出来ないわけですよ。無理だもん、そんなの。
 たぶんこれって「ホラー」が得意としてるサービスだと思うんですよね。さっきも話したように「決定的な瞬間に至るかも」という思考で恐怖を覚えるってことは、過程全部が「怖い」シーンになりえる。だから常に「いま決定的な瞬間が迫ってますよ〜」ていう予兆をずっと維持させることで、一番視聴者が味わいたい「恐怖」を与えられるのだから。

 だからねぇ、もう『あのコはだぁれ?』見てて清水嵩は凄いところまで来てんな、と改めて思いましたよ。いや元から凄いんだけどさ、この作品の映像って「怖い」はすでに「感情」じゃないって証明してるようなもんなんです。
こういう構図で、こういう場面を作れば勝手に人間は「思考」して恐怖を見いだす。もっと言えば「これはホラー作品です」って前提さえ示せれば、ただの風景映像が「怖い」ものになる……これを作品全体で与えて読者の生活まで「恐怖」を染み出させてきたのが小野不由美の『残穢』(映画の方は見てないから小説の方ね)

だと思うんですけど、清水崇はサービス精神旺盛だから「さすがに私生活まで踏み込んだからかわいそうだから、映画館の中だけで完結させよう」みたいな優しさもあるわけでw
 だから「怖い」っていうのは「構造と前提」によって作られるもので、すでに感情では無いんですよね。

 これの何が嬉しいかというと、私はこうやって平気でホラー作品が見れるように「怖い」作品から震えるような恐ろしさを感じることって、めちゃくちゃ難しいわけですよ。いま「ホラーのある生活」って特集で同人誌の原稿募集してますけど、少なくない人から「自分は怖い話って本当に無理で」みたいな話も聞くのね。だから私は「作品から怖さを感じる部分がだいぶ麻痺してるんだろうな」と思うわけ。
 そこにですよ。怖いは感情じゃなくて構造だから、って出してもらえると「あ、この場面は怖いものなんだ」とわかる。そうすると私自身は怖くないんだけど、でも「ここには”怖い”があるのは間違いないんだな」と思えるから、怖がるフリができる
フリって言うとあんま正確じゃないな……うーん、怖がってるアバター? 疑似人格? みたいのが駆動しはじめるんですよね。そうなると、怖くはないんだけど「怖いことはわかる」が上からコーティングしてくれるので「ああ、私はいま久々に”怖い”という状態を思い出しているぞ!」ってなれる。
 なんていうかな、実家のカレーってめちゃくちゃ旨いカレーではないんだけど「子どもの頃はこれがめちゃくちゃ旨かったんだよな、うん、そうそうこれが”旨かった”自分は確かにいたし、それを思い出すことが”旨い”わ」って感じかね?

 それにね作品自体に含まれてる毒もかなり良くて。この『あのコはだぁれ?』で襲ってくる怪異の元凶はひとりの少女なんですけど、このコは何か恨みがあってとか、なんらかの悲劇によって悪霊にとかじゃないのね。
このコは良い音楽を作って、それでみんなを自分の世界に取り込みたいと思ってるの。だけど良い音楽を作るには人間の「最後の音」が必要だと考えていて、それってつまり人間が死ぬ瞬間の声とか環境音を集めなきゃいけないから、バンバン人を殺してそれを録音していくっていう。
自分も死んじゃって、ちゃんとそのときの音も録っていて。それでも足りないから幽霊的なものになって精力的に音楽活動に勤しんでる。
 つまりものすごく前向きに創作活動として、自分が楽しくて一生懸命だし、他人も私の音楽を聴いてこっちの世界に呼び込むことが絶対ハッピー! みたいなテンションなわけ。だから例えば生前の無念とか、復讐心とか皆無なことで、怨みを晴らす的な彼女の行為を止めさせる手段が根本的に無いのよ。

 これって「すべての創作は尊く素晴らしい」みたいなお題目に対して「んなわけねぇだろ」を思いっきり突っ返してるし、さらには色んな活動が「良いことだ」と思ってやっていても他人から(それも大多数の人間からしてみれば)迷惑千万なこととかあるよねぇ、まぁそれをやってる当人には言ってもわかんないんだけど! みたいなことも言ってるわけで。
これをロシアとイスラエルとかの現状に重ねてみてもいいし、表現規制とかにも重ねることができる。だけど反転して見れば「自由な表現なんてエロがやりたいだけでしょ!」みたいな人にとっては、規制と戦う側が悪霊にも思える。そういう相対化を視野にいれつつ、これまで「ホラー作品」全般が受けていた根拠のないバッシングを考えれば答えは明白なあたりも、作りとして上手いな。と思いました。

 私この作品、自分でも気づいてなかったけどかなり好きだわ。もしかすると清水崇作品で『呪怨』を超えて一番好きかもしれない、うん良い、そして”怖い”作品でした……実は同じ時期に上映してた映画の関係で『みんなのウタ』観れてなくて、題材的には近いから昨日『みんなのウタ』も見たんだけど……これ完全に『あのコはだぁれ?』の前日譚だったのね。
 そして残念なことに『みんなのウタ』はサービス精神が悪い方に向かっていて、こっちはあんま面白くなかったです。
 でも『あのコはだぁれ?』はホント良かったから、うん。かなり好き。

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 次回は『仮面ライダーガッチャード ザ・フューチャー・デイブレイク/爆上戦隊ブンブンジャー 劇場BOON! プロミス・ザ・サーキット』評を予定しております。

 この話をした配信はこちらの15分ぐらいからです。


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