一週遅れの映画評:『ゾンビランド:ダブルタップ』〈小さいことはいいことだ〉
なるべく毎週月曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。
今回は『ゾンビランド:ダブルタップ』です。
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2009年の『ゾンビランド』から10年、役者もそのままに10年後の世界を描く『ゾンビランド:ダブルタップ』が帰ってきたぜYEAR!
普通こういう時は「前作を知らなくても楽しめます!」とかいう方向で話をするのが普通なんだけども、これに関しては『ゾンビランド』を見ておいたほうが良い。Amazon Prime Videoのレンタルにあるから(https://amzn.to/34voebz これは翻訳版へのリンク。字幕版もある)映画代に100円足すつもりで先に見る、これが「ルール18:準備運動は怠るな」だ。
突然「ルール」なんて言い出したけど、これは『ゾンビランド』『ゾンビランド:ダブルタップ』を見ていれば意味はわかると思う。主人公の一人コロンバスはゾンビだらけになったアメリカ、つまり「ゾンビランド」で生き延びるために自分で決めた「ルール」に従う。例えば「ルール1:有酸素運動」「ルール2:二度撃ち(ダブルタップ)でとどめを刺せ」「ルール3:トイレに用心」「ルール4:シートベルトをしめろ」……そういったルールは「ルール32:小さいことを楽しめ」まである。
生きてる人間がほとんどいないゾンビランドでは当然まともな政府も法律も働くわけがなく、荒廃したポストアポカリプスの世界が広がっている。何も咎めるものがない中でコロンバスは自分で決めた「ルール」に従って生きる。それはまったく野放図な環境で人は生きていけないということだ。何かしらのルールで適度に縛られること、それが生きるためには(ゾンビに対する生存という意味でも、精神的な安定という意味でも)必要なことなのだ。
それは映画全体にも適用される。脚本・シナリオが持つことのできるルールのひとつが「伏線とその回収」だ。『ゾンビランド:ダブルタップ』ではちょっとした言葉遊びから作品全体の仕掛けまで、全編を通して「伏線とその回収」が行われている。実際行われていることは大した「伏線とその回収」ではない、さっきも上げたいくつもの「ルール」のひとつに言及したのなら、それを守ることで助かる/守らなかったことでピンチという展開が直後に描かれるし、前作『ゾンビランド』を前提としたちょっとしたギャグや、しょうもない女を家(その家はホワイト・ハウスなのだが)に泊めたらその晩に元カノが帰ってくるとか、それほど大仕掛けというよりも短いスパンで「伏線とその回収」を繰り出すことでコメディとしてのリズム作りを行っている(そのリズムに乗るために、前作の視聴を勧めている。別に内容として知ってないと理解できないってわけじゃあないけど、その「伏線とその回収」にテンポよく乗ることが大事だからだ)。
それはまさに「ルール32:小さいことを楽しめ」だ。
小さく繰り返される「伏線とその回収」は実際に楽しい。デカい規模の誰もが吃驚仰天するようなものじゃなくても、私たちは十分に楽しい。もちろん大どんでん返しの面白さもあるのはわかってる(そういう作品も私は好きだ)、けれど「小さいこと」はその大きいことでは埋められない楽しみを確かに満たしてくれるのだ。
疑似家族という共同体を『ゾンビランド:ダブルタップ』では「やや肯定」する。自由である縛られない価値を知りながらも「あえて」疑似家族という小さな共同体を形成することも同じ「ルール32:小さいことを楽しめ」だ。
そしてもっとも大事なことはその小さな共同体から「いつでも出ていける/いつでも戻ってこれる」ようにしておくことだ。ルールはあったほうがいいし、所属する共同体もあったほうがいい。全てから自由なままで生きていくのは人間にとって疲労が大きすぎる、だから適度な縛りはあったほうがいい。
それでもその縛りを自分の意志ひとつで外せる「自由」は常に持っているべきだ。「ルールを作る」ということを「ルールを破る」ことへの伏線でしないからだ。だから時としてルールを破り共同体から抜け出して自由になる、それはきっと楽しいことだからだ。
そして必要になったらまたルールを作り共同体に属せばいい。
それは何度でも繰り返せる「二度撃ち(ダブルタップ)」なのだ。
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この話をしたツイキャスはこちらの18分過ぎぐらいからです。
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