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一週遅れの映画評:『映画 デリシャスパーティ♡プリキュア 夢みる♡お子さまランチ!』この一皿に願いを。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『映画 デリシャスパーティ♡プリキュア 夢みる♡お子さまランチ!』です。

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 キッズ向けは「3年入れ替え」説というのがあってですね、各々のシリーズはおおむね3年で子供たちは卒業していくみたいのがあるんですよね。仮面ライダーならゼロワンから入った子供はセイバーを挟んでリバイスで卒業みたいな。その関係でキッズものはだいたい3年で対象年齢リセットする、みたいな読みがあって。
 まぁ実際はそれぞれの年で「はじめまして」の子がいるはずなので、基本的には与太話の域を出ない説ではあるんですが。それでも長く見続けていると「あ、今年は対象年齢ちょと上に設定されてるな」とか「今回はリセット年か」みたいなことを感じることはあるんです。
で、そういう観点から言うと今年の『デリシャスパーティー♡プリキュア!』は、対象年齢としては低めに設定されてる感じが強いわけですよ。メインテーマが「ごはん(食事)」っていう身近なものだったり、本編の丁寧なナレーションであったりと。もちろんその上で年かさの子供相手にも伝えたいメッセージが含まれていたり……特に「みんなと食べるとおいしい」っていうのを(昨今の事情もあって)繰り出さないところが、本当に良いとは思っています

 それで今回の劇場版なんですが、主人公ゆいちゃんの幼少期から話がはじまるんですね。幼女ゆいちゃんは雨の中を、傘もささずにトボトボと歩いてる少年を見つけて、定食屋をやってる自分の家に招待しごはんを食べさせる。それは彼女がおばあちゃんから「元気のない人には、おいしいごはんをお腹いっぱい食べてもらって元気にしてあげましょう」って教えを受けていたからなんですけど……まぁ完全にネグレクトを受けている虐待児童の気配がすごいって言うか。
ここでも年齢によって受け止め方が変わる部分があって、本当に小さい子には「元気を出すため、ごはんをちゃんと食べようね」って話になるし、多少年を取った子には「周りに元気のない人がいたら、気にかけてあげようね」っていう、まだ自己しか把握できてない年齢と他者の様子を窺うことができる年齢だとここから読み取れるメッセージは当然違うし、大人だと虐待とか貧困とかの問題が射程に入ってくるわけですよね。

 で、このゆいちゃんが提供した「お子様ランチ」を実際に作ってみたんですよ、それがこんな感じで。

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(これに関する追加記事を書きました「『映画 デリシャスパーティ♡プリキュア 夢みる♡お子さまランチ!』映画評のおまけ。」) 

いや作る前からわかってたけど、めちゃくちゃ思想が強いっていうかw
・大きなまん丸おにぎり2つ
・たまごサンド
・キノコとベーコンのパスタ
・ポテトサラダ
・ナスのマリネ
・プチトマト
・プリン
・ゼリー
 もう鬼のように炭水化物(糖質)てんこ盛りで、「元気がないときは米を食え!」って圧がすごいの。映画内ではたぶん定食の付け合わせとして作り置きしてるのを、最初は別々のお皿に盛りつけたんだけど、少年は手をつけないのね。そこで全部を一皿に寄せて「はい、お子様ランチ!」にして食べさせる
 
 そういった幼少期ゆいちゃんの「誰かを元気にしたい」って姿勢はいまも変わってなくて、それを見ている妖精のコメコメは憧れて「ゆいちゃんみたいなヒーローになりたい」って思うようになる。コメコメは作中で幼稚園児4~6歳ぐらいの姿になる、つまりプリキュアがメインターゲットにしている層と同年代で、それがプリキュアにではなく「ゆいちゃん」という普通の人を対象として憧れを持つわけですよ。
つまり特別な力を持ってるプリキュアにではなく、ただの人間として元気を分け与えようとする姿を「ヒーロー」として憧れるわけで。ここが一時期プリキュアシリーズが掲げていた「誰でもプリキュアになれる」路線から離れようとしている、「プリキュアじゃなくてもヒーローになれる」をやろうとしていて……こう、一度ウケた路線に乗っかったままじゃなくて、ちゃんと違う方向を目指していけるのが「毎年、新しい作品を作れる」ことに繋がっていて非常に良いと思うんですよね。

 ただ、この「食べ物で元気を分け与えるヒーロー」っているじゃない、あの方が。恐らく日本幼児向け界で最強最大のヒーローである「アンパンマン」が。だからこの方向性で作品を作るなら、どうアンパンマンから離れるか? ってのは絶対に考えなくてはならないことで。
 今回の『デパプリ』映画ではそこに「大人への不信」を前提としたときどうするか? っていうのがあるんですよね。ゆいちゃんが助けた少年は別にネグレクトを受けていたわけではないんだけど、色々あって大人から裏切られ「大人なんて信じられない」って思っている。これはまぁ虐待児童全般に適用できると思うんですよ、そしてアンパンマンていうのはやっぱり「大人」で、彼自身がどれだけ無欠のヒーローであったとしても「大人への不信」によって拒絶されてしまう立場ではある。
 
 それでね、ゆいちゃんは少年にごはんを食べさせたあとで「また元気がなくなったら、駆けつけるから」って言う、それに対して少年も「もしつらいことがあったら、今度は僕が君を助けるよ」と約束するんですけど……まぁ、これって端的に不可能じゃないですか。あなたが困っているときに自分が助けに行きますよ、ってそれを完璧に遂行するなんて絶対にできない。
 だからここにあるのは不可能な約束を、だけど本気で出来ると思ってする、ある種の「子供っぽさ」なんですよね。たぶん子供同士じゃないとできない約束で。それでもそこに意図的な裏切りは無いのですよ、信じられない大人と違って、約束をわざと破ろうとしているわけではない。
 
 それって助けてはくれない、助けれはくれないんだけど、それでも世界のどっかには「自分が苦しい時、それを助けたいと思ってる人がどこかにいる」と信じれることで何とか持ちこたえれることはある。実際に助けてくれる大人のアンパンマンが信じられないとき、実態としては助けにはならないんだけど、それでも信じられる誰かがいることの大事さがある。
 これから成長していく子供にとって親離れってのは絶対必要で、その中で同年代の友達とか、いまの時代は顔も知らないネットの知り合いだって当然できる。彼らは困ってるとき助けになるかわからないけど、それでも「なんとかしてあげたい」と思ってくれるかもしれない。決して果たされない無責任な約束だけど、それを交わせる「子供っぽさ」は大人には入り込めない大事なものなんじゃないのかな、と。
 
 それでね、これがすごく重要なとこなんですけど。そういう「子供っぽさ」は別に子供の特権でもなくて、同じものだって大人でも持ち合わせていることが示唆されてると思うの。
 最初の方にね、別々のお皿に盛ったものを一皿に寄せて「お子様ランチ」にしたって話したじゃない? つまりはそのお子様ランチを構成しているひとつひとつは「大人の食べるもの」と一緒なわけですよ。それは翻って、たとえ大人だとしてもそういう「無責任な約束」をすることができるってことになる。誰にでもそういう「子供っぽさ」は宿っていて、ただお皿を分けてるかどうかの差しかそこには無い
 
 これがさっきした「プリキュアじゃなくてもヒーローになれる」へと繋がっている。特定のその人じゃなくて、誰もがそういう「無責任な約束」ができる可能性を持っていて、全然知らない人でも心のどっかに「困ってる人が目の前にいたら助けたい」を持っていて、それはあなたが/私が「困ってる人が目の前にいたら助けよう」ってうヒーローになれる。誰もがヒーローになれる可能性を、「子供っぽさ」という形で持っているよ。って話になるわけですよね。
 
 しかも、しかもですよ。『デパプリ』は「ごはんは笑顔♡」ってキャッチコピーだから、みんなが普通に食べてるごはんを介して、それを分け合ったりすることが誰かの助けになるかもしれないって言っている。当たり前の日常に、すこしだけ子供っぽさを取り戻すことで、「ヒーローになれる」と語っている
それを映画内では「大人だってお子様ランチを食べてもいい!」って言葉にまとめてるところが、メッセージの明確さとシンプルさがあってとても素晴らしかったです。

 大変おいしゅうございました。ごちそうさまでした。

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 次回は『”それ”がいる森』評を予定しております。

 この話をしたツイキャスの録音は、こちらです。


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