一週遅れの映画評:『キリエのうた』本当に……「ありがとう」……それしか歌えない。
なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かして配信で喋る。
その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。
今回は『キリエのうた』です。
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この映画、上映時間が3時間あってさぁ。私は長い映画ってあんま好かんのよ、こうやって毎週話すために見てるから基本的に短ければ短いほど嬉しい……あれよね、本当はそれほど「映画」ってものに興味がなくて、私が好きなのは「映画”評”」なんだというのが如実にあらわれてるわけなんだけどw
だから3時間とかって90分映画2本分じゃない? だったらてめぇ、倍は面白くないと許さんぞと思って見に行って。結果、許す!! という感じでした。
ただ時間が長いのと、作中でも結構過去と現在を行ったり来たりするから、ここでちょっと時系列順にネタバレ込みでストーリーをまとめます。
2010年の宮城県石巻市に住むキリエって女の子は、同じ高校の先輩・夏彦と付き合っていた。それでキリエは夏彦の子を妊娠し、将来結婚する約束をする。ところが翌年、東日本大震災による津波が起こり、妹のルカを探しに行ったキリエは行方不明になってしまう。
家族全員が行方不明になってしまった9歳のルカは言葉が喋れなくなってしまい、しかもなぜか大阪で路上生活をしていた。そこを小学校教員が発見し、唯一の知り合いである夏彦に連絡を取る。夏彦はルカの面倒を見ようとするけど、血縁でもなんでもない彼には引き取ることができず、ルカは児童養護施設に送られる。
数年後。北海道で働いていた夏彦の元に、同じく北海道で高校に通っているルカから連絡がくる。歌を歌うときは声が出せるけど、それ以外はほとんど喋れないままのルカは高校で孤立していて、里親との関係もあまり上手くいっていない。そこで夏彦は、自分が家庭教師をしているルカと同じ学校のマオリって子に「友達になってくれ」と頼む。
マオリとルカは妙にウマが合い、親友になる。一方、里親と上手くいっていないルカは夏彦の家に入り浸っており、それが問題視されてルカは夏彦と会うことを禁止されてしまう。
そこからさらに数年後。ルカは「キリエ」と名乗って、相変わらず喋れないけれど東京の新宿路上で弾き語りをしていた。そして真っ青なウィッグを身につけて「イッコ」と自称する妙に羽振りのいい女性と出会うのだけど、それは親友のマオリであった。「キリエ」の歌に感銘を受けた「イッコ」は、「あなたのマネージャーになる」と言って協力を申し出る。
イッコの助けもあって、徐々に人気を得ていくキリエ。ミュージシャンの仲間も増えていく。そんな最中、イッコに結婚詐欺の容疑がかかっていることが判明する。彼女は「旅行に行く」告げて姿を消す。
それでもキリエは弾き語りを続け、芸能事務所からの誘いは「イッコがマネージャーなので」と断る。そんな折、知り合ったミュージシャンたちと野外音楽フェスを行うことになって、当日は集客も多く盛り上がる。しかし騒音として通報され、イベントの許可書を紛失してしまったことで、警察ともみ合いになってしまう。
一方、雲隠れしていたイッコは花束を手に音楽フェス会場へ向かっている途中で、恨みをもった人物に刺されてしまう。
その後、風呂トイレ共通の布団を敷けばそれだけで埋まってしまう狭い一室で、変わらずギターを弾いて歌うキリエの姿を映して、作品は終わる。
というのが要点をかいつまんだだけのストーリーなんだけど、ここから見えてくる作品のテーマというか描きたいものって「社会と幸福」、もっと言うと「社会に属することと、幸福であることの”無関係”さ」なんですよね。
最初の、津波で行方不明になった方のキリエは父親が亡くなっていて、しかも姉妹がたくさんいる家庭の子なの。まぁ端的に言えば結構な貧乏、しかも学業もあまり芳しくない。それに対して夏彦は、代々医者の家系で本人も医大に合格するため専門の家庭教師を複数人つけるぐらい裕福な家庭に育っている。だから高校生で女を妊娠させて、結婚を決意するのってめちゃくちゃ反対されることが目に見えているわけですよ。
で震災後のルカも、児童養護施設に半ば無理やり行かされてしまう。面倒を見るって決めた夏彦は、法律の上じゃあ赤の他人だから「どこの施設に入ったか」すら教えてもらえない。その後、夏彦と再会してもまた断絶させられてしまう。さらには音楽フェスも国家権力によって潰されてしまう。
マオリ/イッコもそういう傾向があって、結婚詐欺の容疑者になっているし、実際まともに働いていないのに妙に金を持ってる感じ「コイツなんかやってんな」という雰囲気はずっとあるのだけど……なんというかマオリ/イッコ本人は騙してる気なんてさらさら無いように見えるのね。ただ彼女の奔放さが社会倫理と相性が悪いのと、まぁ惚れた男にしてみりゃ最悪ってだけでw
でね、重要なのはルカ/キリエは音楽業界にパイプがある人から「姿を消したイッコを待ってないで、どこかの事務所と契約したらどうだ?」って言われるわけ、そうやってプロにならないと人気もお金も頭打ちだぞって。それに対してキリエは、まぁ喋れないって設定だからすっごい途切れ途切れの声で「そういうのはどうでもいい、歌うのが楽しいからこれでいい」って答えるのよ。
こういうタイプのお話って「とはいっても最後には大成功するよ!」ってのがほとんどだと思うんだけど、この作品だと最後にキリエが風呂トイレ共同の1.5畳しかない部屋に住み、布団の上でなんかマズそうなメシを食ってるっていう。マジで「社会的成功とか金とかに興味ないのな!」ってのが一貫してるんですよね。
ただそこに悲壮感とかはまったく無くて、きっとこれが彼女にとっての幸福なんだろうなってのが伝わってくる。そういう視点で見てみると、キリエは間違いなく「成功」してるのがわかる。彼女の人生って前半は「社会」にめちゃくちゃ邪魔されるんですよ、特に唯一心許せる相手の夏彦とは徹底的に切断される。
だけど話が進むに従って「歌うこと以外どうでもいいや」ということに気づいていき、「社会」と距離を取る(取ることができるようになった、が正しいかな?)。そうやって最後には「歌うことを邪魔する煩わしさ」をできる限り排除した生活に落ち着いている。だから作品全体を通して見ると「最初は悲惨だったけど、右肩上がりに幸せになっていくキリエ」が描かれていて、それがね見た後の心地よさとか、納得感に繋がっているわけさ。
そしてそれを支えてるのが名前と設定なんですよ。
ルカは自分のことを「キリエ」って呼ばせる。ルカっていうのは戸籍に登録されている名前で、それはどうしたって社会的なものなんですよね。だけど「キリエ」は違う、どこに行ったかわからない、生きてるかも死んでるかも不明な宙に浮いてる名前なんですよ。だからその名前をまとっているときは、社会との関係から自分を切り離すことができる。ネット上で名乗る名前と、本名を比べたとき「どっちが社会から自由な私か?」みたいにも考えれるよね。
それと同様に「喋る」ってまぁコミュニケーションの一番使われる方法じゃないですか。つまりそこには他者が存在していて、関係性があって……それってつまり「社会」なですよね。だからキリエは喋ることができない、そうやって社会と距離を取る。だけど歌うことはできる、だってそれは一方的な音の投げかけで、普通はコミュニケーションにならない。
とはいえ、たぶんミュージシャン同士は音楽でコミュニケーションが取れるわけで、それは彼女の歌いたい、歌っていれば幸せってことに参与するものだから、喋れなくても歌うことはできる。
そういった2点から考えると「ルカのこえ」というものは、発せられない/発することのできないもので、その逆に存在しているのがタイトル通り『キリエのうた』なんですよね。
この「社会が認める価値と、自分の幸福は別」ってところにリンゴォ・ロードアゲインの「男の価値観」の下りを感じたり。キリエとイッコのバディ感や、最後にイッコが(恐らく)死亡するところ。そしてキリエが「何もない、けれど邪魔もされない」という「マイナスからゼロへ」と至る結末あたり、私はこの作品から『ジョジョの奇妙な冒険 第7部 スティール・ボール・ラン』を感じました。
この「声」は、ルカがいた人間世界の悲惨の音だ……そしてこれが、それを越える音! このキリエが手に入れる世界の「うた」だ!
WRYYYYYYYYYYY―――――ッ!!
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次回は『北極百貨店のコンシェルジュさん』評を予定しております。
この話をした配信はこちらの16分ぐらいからです。