一週遅れの映画評:『閉鎖病棟――それぞれの朝――』決して届きそうもない空の先で
なるべく毎週月曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。
今回は『閉鎖病棟――それぞれの朝――』です。
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病院の、特に入院病棟というのは不思議な空間だ。
そこには傷ついた人間と、それを治そうとする人間の2種類しか基本的には存在していない。しかもまとっている服装からその役割は可視化され、文字通り一目瞭然だ。
幻聴から精神科病棟に入院している主人公のひとり塚本中弥は、数年ぶりに面会に訪れた妹から「母さんの痴呆が始まった。家も売り払い、母さんも施設で面倒を見てもらうことした」と告げられる。閉鎖病棟に長期間入院している中弥は「母さんも俺のように閉じ込めるのか」と反発し、結果として母親の介護をするために退院を決意する。
症状もかなり落ち着いており、任意入院であった中弥の退院は認められるが、その意志を表明した後で看護婦長から
「やっぱり怖い?」
と尋ねられる。それに対し中弥は
「怖い」
と答える。
私自身、去年の2月から5月までの約3ヶ月間入院していた。脳出血を起こし最初のひと月は脳神経科で、あとのふた月は体に残った障害のためリハビリ科で過ごした入院生活は決して楽しいものではなかったし、早く退院できるならそれにこしたことは無いと思っていた。
だがいざ退院し外に出ると、恐ろしかった。
障害が残った、とはいえ運よく軽度なもので済んだおかげで傍目には異常がないように見えるし、注意深く見れば足の運びなどに違和感があるだろうが、それでも道ですれ違う程度なら別段なんとも思わない程度だ。
それは非常にありがたいことであると同時に、健常者と同じことを求められるということだ。足がもつれて転ぶのも、階段でスッ転ぶのも、麻痺した舌で滑舌が悪いのも、病気や障害によるものだということを知らない相手と対峙することになるということだ。
入院患者でありかぎり私が何らかのトラブルを抱えていることは「一目瞭然」だ。白衣を身に着けていない人物は総じて患者であり、そこはリハビリ病棟で患者は誰もが「リハビリを必要とする状態」であるわけで、それは医師や看護師だけではなく「患者同士」にも無言の了解がある。それは非常に安心できる場所だ、誰もが傷ついていることを前提として生活する空間では「傷があらわになること」を恐れる必要が無い。
だが病院から外に出れば違う。障害が無いことを前提とした空間に立つ心細さと、ふとした瞬間に「傷があらわになること」で誰かに迷惑をかけたり、不審な眼で見られたり、あるいは不要な心配をさせてしまうのではないかといった不安に苛まれる。
それは「怖い」、とても怖かった。
わずか3ヶ月の入院期間ですらそうなのだ。何年も病院で暮らしていた中弥の恐怖心はより大きなものだろう(見た目では判別つかないけれども、確実に傷を負っているという点では私と中弥の状態はいくらか似た部分もある)。
それでも中弥は退院することを選ぶ。
病院から出るとき、医師は彼にこう告げる。
「月に一度の通院は忘れないように……本当は誰かの面倒を見れる状態じゃないんだぞ?」
いくらか症状は落ち着いたとはいえ、それでも自分の状態を安定させるのに力を注ぐべき状態にある。それは傷を抱えた「弱者」として社会と向き合っていく必要があるといくことを意味していて、痴呆が始まったらしい年老いた母親の生活を手伝うような余裕は中弥に無い。それでも彼は母親を支えることを決意する。
閉鎖病棟内では中弥をはじめとする多くの患者が暮らしており、彼ら/彼女らは傷ついたもの同士で互いにコミュニケーションを取り、時には険悪な雰囲気になりながらも互いに支え合って、医師や看護師といった「治そうとする人間」だけでは埋めることのできない部分を補完しあって生きている。
本当は「寄らば大樹の陰」とも言うように、傷ついた者が傷ついてない者に、弱者は強者に寄りかかりたい。だが院内では患者同士が寄り添うように、弱者である中弥は年老いた痴呆の(弱者である、といいかえてもいい)母親に寄り添う。
きちんと立派な家庭を持っている妹は母親を施設に預けようとする……それは酷い行いとして弱者の眼には映る。しかし中弥や母から見れば十分な強者である妹もまた不安なのだ、自分たちの幸せで一応は満たされている生活がちょっとしたで瓦解する可能性を知っている(それは目の前で病気を発症し弱者になった兄・中弥のことも知っているというのも当然あるだろう)、彼女は相対的には強者だ、だが一方でそれは絶対的なものではない。むしろ「持つ者」だからこそ失う恐怖が強く襲ってくるのだ。
助けて欲しい、何かに寄りかかりたい。そう思う者が助けを求めても、強者は共倒れになることを恐れて手を差し伸べ「られない」(それを責めるつもりは無い、結局のところ助けれるだけの余裕が無いのだ。何かに頼らず立っていても、それはやはり「立っているだけ」で精一杯で「誰かの面倒を見れる状態じゃない」のは変わらない)。そうなったとき弱者は、弱者同士で手を繋ぐしかない。互いに寄りかかり合う、寄り添い合うことでかろうじて立つことができるのだ。
それはいかにも脆い構造だ、互いに支え合ってようやく立っている関係はちょっとしたトラブルで容易く共倒れしてしまうだろう。それでも、それでも大事な人を、友人を支えたいと。なんとしてでも「立っていたい」と願うとき、弱者は弱者同士でしか支え合うしか方法が無いのだ。
退院して社会生活に戻った中弥を、私たちはハラハラとした気持ちで見てしまう。ちょっとしたことで彼の手に入れたささやかな「社会」が崩壊してしまうのではないかと。そしてその「不安」を何百倍にしたものを中弥は胸に抱えるしかない。
それは私の生活だって、いや誰の生活だってそうだ。中弥ほどの不安は無くてもちょっとしたことで全てがダメになってしまう可能性の怪物が、いつだって爪を研いでこっちを見つめている。
誰しもが不安を抱える社会で、弱者は弱者としか支え合えないつらさと行き詰り。そういったやるせなさが切々と迫ってくる。
この作品に明確な希望は無い。それでもひとつだけ道筋を示している。
中弥と同じ病院に入院していた秀丸は数十年前の出来事が元で足が動かず車椅子で生活している。だが本作のラストシーンで秀丸はたった一人で立ち上がろうとする。そもそも頸椎の損傷で動かなくなり、さらには何十年も車椅子生活だった足でいきなり立てるはずもない、まして何にも「寄りかからず」にでは不可能だ。
だがそれでも立とうとする。立てる立てないといった結果ではなく「立とうとする」こと。
それを見ながら私は、この漫画のシーンを思い出していた。
「立とうとすること」と「真実に向かおうとする意志」はきっと同じ方向を示している。
傷は癒えないかもしれない。でも「あなたの傷が癒えて欲しい」という希望に満たない、が、だからこそ、真摯な祈りがこの作品にはある。
最後に、この作品の人物のうち明確に「許せない」という気持ちをかき立てる者がいる。だが彼もまた一人の「弱者」なのだ、それを忘れたとき、きっと私たちは「全てがダメになってしまう可能性の怪物」へと近づいてしまうのだろう。そのことも心に刻んでおきたい。
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この話をしたツイキャスはこちらの4分過ぎぐらいからです。
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