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一週遅れの映画評:『わんだふるぷりきゅあ!ざ・むーびー! ドキドキ♡ゲームの世界で大冒険!』大福、いまは黙ってろ。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かして配信で喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『わんだふるぷりきゅあ!ざ・むーびー! ドキドキ♡ゲームの世界で大冒険!』です。

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 そもそもテレビ本編の『わんだふるぷりきゅあ』には、”いまのところ”って注釈が必要だし、プリキュアって作品を信じてる私としてもそれを絶対につけておきたいんだけど……それでも明らかに問題があるんですよね。
 いや基本的にはめちゃくちゃ面白いし、見ていて楽しい気分にしてくれる良い作品だとは思うの。だけど基本的な設定、つまり「飼い主とペット」という部分から避けては通れない問題が当然あるわけですよ。なんかそこからかなり露骨に目をそらしている。一応、敵のボスがニホンオオカミだから、そこと向き合うつもりがあるとは思うんだけど
 別にね、なんか胸が痛いシリアスな展開をして欲しいわけじゃないのよ? プリキュアとして明るく楽しい、それでいて納得できる。そういった私の想像をやすやすと乗り越えてくれることを期待しているの。だから”いまのところ”、”いまのところ”なのね

 で、今回の劇場版『わんだふるぷりきゅあ』は、そのテレビ本編が持ってる良いところと悪いところをそのまま持ち込んでしまったな。という感じがめちゃくちゃ強い作品でした。その上で「劇場版」というパッケージでいったんはピリオドを打たなければいけない都合上、作中で語られた問題に対してちょっと誠実とは言い難い結論を持ってきてしまった。そういう評価をするしかない感じがある。

 まず良かったとこから行こうかね。今回はゲームの中で作られたキャラクターが暴走して、プリキュアたちを吸い込んで閉じ込めてしまう。特に「人間」をとらえることに執着してるボス・ムジナは、いろはとまゆを傍に置いて、結果こむぎやユキたちと分断されてしまうんですね。
 そこからこむぎたちはゲームのステージをクリアしていけばいろはたちの元へ辿り着けると聞いて、様々なアトラクションに挑んでいくことになるんですけど、これってたぶん「幸福なペットから見える世界」そのものなんですよ。
 世界には色んな楽しいイベントがあって、それを切実さを持ったまま一生懸命遊んで、そうすれば大好きな飼い主に近づける! ってめちゃくちゃ最高の世界じゃないですか。褒められるって報酬系の話でさ、子供がゲームに夢中になるのは何か行動するたびに絶対褒めてくれるからってのをよく聞くけど、それって良い飼い主に出会えたペットも同じなんですよね。ごはんを食べたら褒めてくれる、体を寄せ合ったら喜んでくれる、大好きな飼い主が喜んでくれたら自分も嬉しい。
 この作品、「わざわざゲームの世界にする必要あんのか?」って見てるときは思ったんだけど、たぶんゲームっていう「褒められることで世界がいっぱい」という状況と、「飼い主が自分をずっと褒めてくれる」という幸福なペットの状況ってかなり相似形なんですよね。そこに『わんだふるぷりきゅあ』が元から持ってる、元気で楽しいテンションのやり取りが混じると「見ていてただただ楽しい空間」が発生する。ここはね、この作品が本当に優れている点だと思います。

 その上でお話全体で行われる問いかけが2つあって。それは「ペットと飼い主はいつまでも一緒にいられるのか?」ってことと「ペットは飼い主といて本当に嬉しいのか?」ってことなのね。
 で、まず最初の問に関しては作中でほぼ答えを出しているのさ。ゲームのボス・ムジナは制作者が出会ったタヌキが元になっているんだけど、ゲーム制作者はいつもそのタヌキと遊んでいた公園が突然失われたことで、会えなくなってしまうのね。それで代わりにゲームの中でそのタヌキをイメージしたキャラクターを作る。これってまぁ端的に、動物の命は有限でしかも人間より確実に短い。そうじゃなくても色々な要素で一緒にいられなくなってしまう。だから代わりにデジタルの生命を作ることで、仮初の永遠を手にするしかないよね。ってことじゃない。
 だけどここで『わんぷり』の悪いところが出てくる。つまり「重要な問題から目をそらす」が。こむぎは「飼い主とずっといっしょにいられると思っているのか?」という疑問をぶつけられたとき、「こむぎはいろはと、おばあちゃんになってもいっしょにいるわん!」と返すんだけど……さっきも言ったように動物の寿命は有意に短いわけですよ、だから「こむぎがおばあちゃんになるまで一緒にいる」はできても「いろはがおばあちゃんになるまで一緒にいる」は不可能なわけ。
 そういう非対称性がある中で「犬のこむぎ」だけが一方的に回答するっていうのは、まぁ理屈としては成立してるけど、それって片目をつぶってるだけだよね? ってポイントは確実に残ってしまうだけじゃない。これに対するいろはの回答は先延ばしにされてしまう。
 まぁいいのよ。それは本編に任すべき部分だし、だけどここをテレビ版の終盤でちゃんと拾ってこれるか。それがこの『わんだふるぷりきゅあ』が最終的にどういった評価になるか、ということにすっごい重要性を(さらに)与えてしまっているから、正直ちょっと不安が増してしまうんだけども。

 それよりも、もうひとつの「ペットは飼い主といて本当に嬉しいのか?」って方ですよ。
 えっとねボスであるムジナが人間を捕らえたのって「自分を可愛がってくれる飼い主が欲しいから」なんですよね。これすごい毒があって、このムジナが意味するのって「ペットにとって飼い主は/飼い主にとってペットは交換可能である」ってあられもない事実なわけですよ。もちろん優しくてちゃんとしている飼い主の方がペットにとっては嬉しい、そして可愛くて良い子のペットだと飼い主は嬉しい、それは当然なんですけど。じゃあ同じくらい優しい/可愛いとき、そこには「あの飼い主/ペット」と「この飼い主/ペット」の間にほとんど差が無いってことじゃない。
 その上で飼い主とペットには明確な力関係がある。飼い主にとってそのペットが気に入らない場合、まぁ色んな方法が取れるわけですよね。だけどペットにとって飼い主がいくら嫌な相手でも、その関係を一方的に無かったことにはできない。そういう非対称性がある。
 だからこそ飼い主は「このペットは本当に自分といて幸せなのか?」という疑問を持ってしまう余地が生まれちゃうわけですよね。言語による双方向コミュニケーションができなくて、しかも一方的な力関係のある相手だからこそ、愛すれば愛するほどその「不安」はどうしても拭えないものとしてのしかかってくる

 これにゲーム制作者ともう会えなくなってしまったタヌキとの関係について、「でもきっとその子(タヌキ)も幸せだったと思う」っていろはたちは言うわけですよ。そう信じることでしか、その「不安」は消えない。いや、いくら信じたところで決して無くなることはないのだけど。それでもなお「信じる」こと、自分と相手の間を繋ぎ止めているのは究極「信頼」だけなんだ。
 これを飼い主とペットの間にある尽きない問題の回答にするのはすごく良いと思うんですよね。信じるしかない、そうやって日々を重ねていくことで、形のない/確証のない「信頼」を獲得していく。この言葉を交わせないからこそ、そうやって確かめることしかできない関係ってものを提示するのはすっごく良いと思うんです。

 ねぇ……だから喋ったらダメじゃん大福は。いや、わかる、わかるよ。こむぎとユキみたいに大福が喋って欲しいというのはすごくわかる。私だって「大福が喋ったぁぁあぁああ!!」ってテンションブチ上がりしたもの。
 だけどさ、この文脈で喋ったら台無しじゃん。しかも「俺はサトルといて幸せだぜ」みたいなことを言わせたじゃない。これってほとんど人間からの脅迫だと思うんですよね。話せないからこそ「信じる」ことしかできない、それが一方的な力関係においてほとんど唯一と言えるペット側の強みじゃない。
 だけど喋れちゃあさぁ。下手すりゃ次の瞬間、自分を蹴り殺せる相手に「僕のこと、好き?」って聞かれたら「好きです」って答えるしかないわけですよ。つまりここで大福が「俺は幸せだぜ」って言うことで、いままで築いてきた「信頼」は一気に崩壊していくわけですよ。だって本心がどうだとしても「ペット」という立場では、そう言うしかないんだから。

 これが冒頭に言った「誠実とは言い難い結論」なんです。大福が喋るのはいい、だけどもっとどうでもいい、しょうもない場面で喋るべきだった。特にペットと飼い主との関係に言及させるべきではなかった。
 それはペットに「愛してる」と言わせたい人間の悪い部分で、それを「楽しくてハッピー」な面以外からは目をそらす『わんだふるぷりきゅあ』の良くないところが、思いっきり出てしまった部分だと感じました。

 頼むぜマジで。テレビ本編の最終回で、私の想像をウサギみたいにはるか高く「跳び越える」ような終わりを見せてくれ。

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 次回は『トランスフォーマー/ONE』評を予定しております。

 この話をした配信はこちらの15分ぐらいからです。


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