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一週遅れの映画評:『映画おしりたんてい シリアーティ』揺らがない「善」のある場所。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『映画おしりたんてい シリアーティ』です。

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 『おしりたんてい』が劇場版になるのってこれで4回目なんですよ。過去3回は「東映まんがまつり」の中で上映されているなかの1作で、だから単体で映画になるのは初めてなんですけど……だからこれまでは「何作品かがまとまって上映されるなかの1本」でしかなかったのが、独り立ちっていうとおかしいけど、単体作品でも勝算があると判断されたわけですよね。
 実際に私も1作目と2作目は映画館で見ていて、たぶん当時このキャスでも話したと思うんですけどちゃんと面白い作品だったことを覚えていて。とはいってもテレビアニメは全部で5クールかな?放送されていた”強い”作品ではあるんですけど、でもやっぱ「単体映画」が作られることって、一段「格」が上がる感じはあるじゃないですか?
 そしてその「格」に見合う、非常に貫禄のある作品だったんですよ、この『シリアーティ』は!それ以上に映画としてすっごい面白くて……ただ難しのが面白かったことと語りやすいってことは全然別の要素なので。まぁハッキリいうと「めちゃくちゃ面白かったけど、話しにくいなぁ」っていうwほらこうやってシリーズ情報みたいのを喋ってる時点で、作品評への入り口を探ってる感じがバレてそうですがw

 というのもね、お話としてものすごくシンプルなんですよ。名探偵として知られてるおしりたんてい、そこに初めてあらわれる強敵シリアーティとの戦いが描かれるんですが、そこにはヒーローの後ろめさとか悪役の裏側とかはほとんど無くて勧善懲悪のラインを崩さないんです。これってめちゃくちゃすごいことで、映画一本分のストーリーを秘密の開示とか驚きの展開なんかを使わずに作るのって、かなり困難だと思うんです。
 たぶんじっくりシリアーティの過去を語って、とかおしりたんていのトラウマをほじくり返したりとかした方が楽だし、簡単に物語の起伏も作れる。でもそれをやらずに一本の映画として見応えがあったことが、さっき言った「貫禄のある作品」という印象に繋がっているんだと思うのよ。

 で、それの何が良いかって登場人物たちがずっと「カッコいい」ままなんですよ。おしりたんていは知性にあふれているのに意外なほど熱血漢で、それでいて誰にでも優しい品格のあるジェントルマンで。おしりたんていは顔がお尻で、しかも必殺技が口からものすごい勢いでガスを噴出する(しかもそれがかなり臭い)っていう、まぁわかりやすい下ネタじゃないですか。それなのに品格と品性を兼ね備えた紳士、という印象が絶対に無くならない……いやこれホント凄いことだと思うんです。なにか少しでも彼に問題があれば一気に下劣で下品なキャラになりかねない
 一方でシリアーティもミステリアスで犯罪者ではあるんだけど、おしりたんていにも引けを取らない知略と人を惹きつけるカリスマ性があって、一言一言が名探偵と互角に渡り合う悪役としてめちゃくちゃカッコいいんですよ。しかも作中で大きな失敗をしたり、情けないところを一切見せないんですよね。「かっこいい悪役」というキャラクターを最後まで維持している。
 児童向け作品でこれをやるのってそれなりに勇気が必要なんです
よ。つまり「悪人は情けなくてカッコ悪い」方が、まぁわかりやすく教育的ではあるわけじゃないですか、それをさせずにカッコいいままで終わらせる。これヘタすれば悪を賛美しているようにも受け取られかねない。
 ここで「おしりたんていの品性と知性は決して揺らがない」という要素が効いてくるんです。シリアーティがどれだけカッコよくても、必ずそれを真っ当な誠実さで上回る。相手を下げるでもなく、急にパワーアップするまでもなく、いつものおしりたんていのままシリアーティに対抗し勝利する。こんな強い「善」の表現ってなかなか無いですよ!特別でもなんでもなく「日々を生きるそのままの姿で、揺るがない善を成す」ってほとんどヒーローとしての完成形と言っても過言ではないとすら思いますね、私は。

 で、さっき言った臭いガスを噴射する必殺技。これをおしりたんていだけでなくシリアーティも使うんですが、お互いその前の口上があるんです。おしりたんていは「失礼こかせていただきます」、シリアーティは「無礼こかせていただきます」なんですけど、この僅かな差がおしりたんていとシリアーティの決定的な違いなんです。
 まぁ臭いガスを出すってオナラなわけですよね。だらかどっちも「こかせていただきます」と断るわけですが、おしりたんていはそれを「失礼」だと、つまり礼節を失う行為だと言っている。許せない悪に対して自身の持ち合わせている紳士的な部分を一時的に失って攻撃をするぞ、と宣言している。一方でシリアーティは「無礼」礼節が無いと言う、これって「ここあった礼儀がいまは無い」ってことで、つまりシリアーティには本質的に礼節が備わっていない、あくまで表面にあらわれるものとしてそれを身に着けてはいるけども、根本的な性質としては持ち合わせていないということなんです。
 おしりたんていは自然に持ち合わせている善を一時的に手放すことで攻撃するのに対し、シリアーティは本性をあらわすことで攻撃する。この差は本当に小さなものだと私は思うんです。人が礼儀を身につけることができるのは99%後天的な学習だと思うし、それをきちんとやり遂げているシリアーティは決して責められるようなものではないと。
 だけれども、だけれどもですよ。さっき喋ったようにおしりたんていには少しでも問題があったら下品な下ネタキャラになってしまう可能性がある。つまり本質に問題があるシリアーティはそのことによってやはりおしりたんていには敵わないんですよ。だからそこで「日々を生きるそのままが善」であるおしりたんていの強さとカッコよさが、当たり前のように「正しく」生きることがどれほど強靭か、という部分につながるわけです。

 それで今回の映画にはシリアーティを追う国際警察ワンターポールのオードリーってキャラが出てくるんですけど、彼女はものすごいシークレットブーツを履いていて身長を実際の倍くらいに見せかけているんですね。ちっちゃいままだとナメられるから、って理由で。
 それってシリアーティと近いんですよ。後天的に得たもので自分を大きく強く見せようとしている、という点で。だけど後半でオードリーは「自分はまだ新人だから、こうやって大きく見せる必要がある」ということを認める。けれどもそのシークレットブーツをやっぱり脱がないんですよ。さっきも言ったように人には後天的に身に着けたものだって大切だし、それは間違ってはいないから。
 そしてオードリーのシークレットブーツに仕込まれた機能が、シリアーティを捕えるために大きな活躍をするんです。シリアーティは身に着けたものを手放すことで攻撃をする、一方でオードリーは身に着けたものを自身の一部と認めるそれで誰かを助けようとする。本質的に持っていなかったものだとしても、それを正しいことに使うのなら、それはおしりたんていにも引けを取らない「善」になる。というのはねぇ、ものすごく希望に満ちたお話なんじゃないでしょうおか。

 いやもうね『おしりたんてい』めちゃくちゃ良かったですよ。ホントね、こういう思いもよらなかった名作に出会えるのが「毎週新作映画から一本を選んで見る(そして話す)」っていうのの良いところですね。

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 次回は『ツーアウトフルベース』評を予定しております。

 この話をしたツイキャスはこちらの13分ぐらいからです。


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