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一週遅れの映画評:『はい、泳げません』もう、承認されてます。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『はい、泳げません』です。

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 主人公は大学で哲学の教鞭を取っている先生で、たぶん一瞬だけ出てくる授業風景だとフランス現代思想系の実在主義~構造主義みたいのをやってんだけど、まぁこれは完全に「それっぽい感じのやつ」ですね(ただ監修は國分巧一郎だったりするんだけど)。この主人公が幼い頃のトラウマによってハンパじゃなく「水が怖い」、どのぐらいかっていうと手の平に水を溜めて顔にバシャってかけるのすらできないぐらい。そんな人物が「泳げるようになりたい」と初心者向けスイミング教室に通い始める……って話なのね。
 
 それでこの作品には3人の子供が出てくるんですよ。もう離婚している主人公の息子と、いまちょっといい感じに付き合いかけてるシングルマザーの息子、それと自分の元教え子たちにできた赤ちゃん。
 赤ちゃん、とはいってもまだ妊娠6ヶ月ぐらいなんですけど、その元教え子が「結婚の証人になって欲しい」ってやってくるんですけど、そこで妊娠の報告を聞いた主人公は「なんだ、君たちはもう承認されてるじゃないか」と懐妊を祝福しながら言うわけですよ。確かにこの感覚「哲学の教授っぽ~い」と言うかw婚姻という契約をもっとも強く承認する者として二人の間の子供以上のものはない、そして年齢とか関係なく胎児の存在をそう表現するのって、すごくそれっぽい。
 
 ただこの子供がいることはすでに二人の関係が承認されている、って裏返すと「子供がいなくなったとき、その関係を保持するのは難しい」ってことになってしまうんですよね。つまりどういうことかっていうと……主人公の息子はすでに亡くなってるのね。6歳のときに、それも川に落ちて溺死している。しかも主人公はそれを助けようと川に飛び込んだ結果、流されて岩に頭を打ち付けて気絶してしまう。そのショックで息子が亡くなった前後の記憶を失っているんですよ。そしてその事件が元で離婚している。
 教え子の元で育まれる新しい命が承認なら、主人公の亡くなった息子は「拒絶」を意味してしまうんです。誰かと関係を持つことの拒絶、あるいは世界そのものからの拒絶を。
 
 それでも主人公はシングルマザーと知り合い、その関係をもっと深めたいと思っている。だから「なんとなく」泳げるようになろうと決める。いや「だから」と「なんとなく」ってイマイチ文章が繋がっていないんですけど……えっとね、すごくわかりやすい話としては自分の息子を水の事故で亡くして、シングルマザーにも息子がいる。だからもしもの時その子を助けれるように、みたいな理由は想像しやすいじゃないですか。ただこの動機は作中で否定されるんですよ、それがゼロだとは言わないけどあくまでも付随しているだけ、みたいな感じで。実際主人公にも自分がなんでいまさら泳げるようになりたいと思ったのか、あんまりわかってない。本当にその時点では「なんとなく」なんです
 ただスクールに通って、最初はプールに入ることすら嫌がっていた主人公は徐々に水に慣れていってごく短い距離だけど泳げるようになっていく。その過程で「水中にいるときは、むかし聞いた息子の声を思い出す」ことに気づくようになる。最初は赤ん坊のころの泣き声からはじまって、幼稚園、小学校の入学式、って感じに泳ぐ距離が伸びるのにシンクロして思い出も進行していくようになる。
 
 あのですね、私は舞城王太郎の『熊の場所』って短編がめちゃめちゃ好きなんですけど、その中で「ひどい経験をトラウマにしないためには、なるべく早く同じ場所に戻って、同じことを克服するしかない」みたいなくだりがあって、私はそれをひとつの真実だと思ってるんですよね。
 そういった意味でこの主人公は「なるべく早く」とは言えないまでも、幼い頃のトラウマを解消するために「水中」という同じ場所に戻ってきた。しかもそれは息子を亡くすという悲劇とも重なった場所でもある。そしてそこで泳いでいくうちに息子の思い出がよみがえってくる、それはどんどん亡くなったときの、主人公が失ってしまった記憶にまで近づいていく。
 ここでようやく主人公の動機が「なんとなく」だった原因が判明してくるわけですよ。息子の亡くなったときの記憶を取り戻したい、だけどそれは失ったものだから「それ」を取り戻したい、みたいな明確な何かではなく。失われている空白部分、つまり認識していない/できていないものなわけで、それを表現すると「なんとなく」という言葉にしかなりえないわけなんです。
 
 それで、最終的に主人公は水中で息子が亡くなったときの記憶を取り戻す。届かなかった手を伸ばしたときに息子が「おとうさん!」と自分を呼んだことを思い出すんですよ。さっき言ったように主人公にとって亡くなった息子は「拒絶」の象徴だった、けれどその最期の言葉によって主人公はずっと承認されていたことを、息子からも世界からも拒絶なんてされてなかったことを知るんです。
 それでようやく真に自分の息子を弔いながら、新しい関係を作っていく決断をすることができるようになる。
 
 でも考えてみれば、主人公が拒絶なんてされてなかったことは明白なんですよね。だって手ですくった水を顔にかけることすらできなかった人が、息子を追って川に飛び込めるんですよ。こんな強い愛からの行動なんてないし、助けることはできなかったけど自分が激しく拒絶していた水中へ息子を追って入っていける。それは水中よりももっともっと強い承認が親子の間にあったという証明以外のなにものでもないのです。
 そうやって最初の元教え子たちに向けた「もう承認されてるじゃないか」という祝福が、実は主人公自身にも与えられていたんだ、という構造として立ち上がってくる。それを象徴するように、25m泳げるようになった主人公に向かって水泳のインストラクターが「じゃあ次は50m目指しましょう!」って言うんですよ。25mプールを行ってターンして戻ってくる、そういった「泳げるようになった」動きと物語の設計が重なっているところが、めちゃめちゃ上手いんですよ。やっぱストーリーが作る構造とテーマがこうやって合致している、っていうのは作品としての強度があって素晴らしいな、と。
 
 それでね、この水泳インストラクター。むかし車に轢かれて大怪我をしてしまった過去があって、それ以来「外を歩くのが怖い」もう傍からみてて完全に挙動不審なぐらい怯えてしか道を歩けなくて、だけど水中だと(車がいないから)安心してスイスイ泳げる。まぁ主人公の反転した存在みたいなのなんです。
 映画本編ではインストラクターのトラウマが解消されるような話は一切ないんですが、水を怖がっていた主人公を励ましたり叱咤したりして泳げるようにさせた、水へのトラウマを解消させたという実績と、この作品で描かれた「祝福は最初から自分にも与えられていた」という構造に従うなら、きっとこのインストラクターもいずれ立ち直るんだろう。そういう予感をはらんだ感覚を最後に与えてくれる、描かれていない先までも続いていく同じ構造を強く意識させてくれる映画でした。いやホントに邦画舐めんな!って感じですね。

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 次回は『怪盗クイーンはサーカスがお好き』評を予定しております。

 この話をしたツイキャスはこちらの15分ぐらいからです。


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