一週遅れの映画評:『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』狂うには、お前が足りない。
なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かして配信で喋る。
その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。
今回は『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』です。
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面白かった! ……と素直に言えることを願っていたのにぃ。といった感じでしたね。
いや、なんというか「面白い/つまんない」って話の前に、これ前作で言ってることを細かくやり直しただけじゃん! あのね5年前にはもう映画評の文字起こしやってたから、そのときのテキストがあるんだけど
ここで私は
って言ってるのね。それも映画評の締めじゃなくて中盤くらいに。で、この作品がどうだったか? っていうとハーレー・クインは承認欲求に駆り立てられるビッチで、暴徒たちはコスプレしてデモしてるバカで、そんな中にキチガイのテロリストが紛れていて……肝心のジョーカーですら自分がやるべき役を見失う三流コメディアンでしかなかった、それを明らかにするだけで終わってしまうんですよね。
このアーサーが演じているジョーカーがそんなヤツだってことは、もう十分に前作から読み取れるわけですよ。その上で「アーサーの悲惨な境遇が提示されれば、あんたらは”悪になるのに理由がある”って安心できるんだろ?」って、すごくイヤらしい方法で「理由」にしがみつく私たちを笑い者にした。その皮肉と嘲笑に、私は感動していたわけさ。
で、改めて考えたいのは「なぜジョーカーは役から降りてしまったのか?」ってことですよね。
これすごく簡単で「彼には味方しか見えてなかったから」なんですよ! そう、味方がいたから、なんです。ジョーカーに好き好き言うだけのハーレー・クイン。あとは刑務所の仲間はわかってる。ジョーカーをワッショイワッショイするだけの集団なんかは居ることは知っていても、こっちはあんまり意識に上ってこない。
もちろん彼を死刑にしたい検察とか、当たり前に否定的な報道なんかはあるけど、それって”ジョーカーには”届いていない(アーサーには届いてるけどね)。そうなるとアーサーの不安ばっかりつのっていくわけですよ、ジョーカーは愛されている/だが俺(アーサー)は愛されていない。
その不安を取り除きたいからジョーカーの役割から降りちゃう。そうすればハーレー・クインが俺(アーサー)を愛してくれるか確かめられるわけだから……で、まぁ承認欲求を満たしたいハーレー・クインにとってアーサーはまったく価値が無いことを突き付けられてしまう。
じゃあどうすればジョーカーはジョーカーのままでいられたか? それはもうタイトルに表れているわけですよ、”フォリ・ア・ドゥ”2人狂い。ジョーカーと同じくらい狂っている彼の敵が必要だった、そうです、バットマンですね。
ゴッサムシティで正義のスーパーヒーローをやろうなんて狂気の沙汰。それを遂行するバットマンと対峙することで、ジョーカーは「ジョーカーの狂気」を持ち続けることができる。あらゆる場面でねじ込まれるミュージカルシーンは、明らかに現実とは異なった場所をジョーカーが求めていることを示している。
いまこのゴッサムシティという現実に足りないものは、ハーレー・クインでも、ジョーカーの信奉者でもなく、ヴィランを正面からブン殴ってくるヒーローなのですから。あのミュージカルシーンは、ジョーカーであり続けるためにバットマンを求めるアーサーの叫びなんですよね。
だけどバットマンはいない。世界を救ってくれるスーパーヒーローなんてどこにもいないんです。代わりに粛々と治安を守る警察官とか検事とか、あるいは真摯さを失わず法に従う裁判官。そういった市井の小さな正義が世界をなんとか良くなるように踏みとどませている。
一方でヴィランもいない。いるのはしょうもなくて情けない犯罪を犯した人で、それは群衆の熱狂や悪意の代表なんかになれない。色恋に目がくらみ、古い友だちに見放され、つまらないジョークを飛ばすだけの面白くないコメディアン。ちょっとだけ魔がさしたり、ボタンを掛け違えたことで不幸を振りまいてしまっただけ。
そしてその正義も不幸もきっぱりと分かれるものでもなくて。刑務所の看守が、個人的な憤りで囚人を殺したりすることもある。はっきりと明確な善と悪なんてどこにも無い、ヴィランとスーパーヒーローが現実には居ないみたいに。
だからこの作品は、前作でやったことをしつこく繰り返しているんですよ。特別なお話なんて無い、当たり前ことが、当たり前に繰り返されている。
それを言うために映画一本を使うのはどうなの? って話で。だけど突拍子もない妄想や暴走を止めるには、そうやって地味に繰り返すことが、一番なのかもしれない。
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次回は『破墓/パミョ』評を予定しております。
この話をした配信はこちらの22分ぐらいからです。