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一週遅れの映画評:『劇場版プロジェクトセカイ 壊れたセカイと歌えないミク』初音ミク不要説。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かして配信で喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『劇場版プロジェクトセカイ 壊れたセカイと歌えないミク』です。

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 先に断っておかなきゃいけないんですが、私はこの作品の「良い視聴者」ではない。ということなんですね。ボーカロイドという技術はすごく好きなんです、音楽を作ることができても歌えない人が楽器として「歌声」を獲得したってこと。あるいはそこから独自進化して「ボーカロイドのための楽曲」というジャンルが誕生したこと。そういう新しい音楽の可能性を開いたことって、めちゃくちゃ素晴らしいんですよね。
 ただ私の場合、それで終わりなんです。そもそも音楽自体に大して興味が無いというのもあるけど、技術や思想に感動したことと、それで作られた作品を鑑賞することはまた別って言うかぁ……どのくらいボカロ曲を聞いたことが無いかと言えば「たぶん『千本桜』を聞いたことがない」というレベルです。どっかで耳に入ってるかもしれないけど、それを『千本桜』だとは認識できてないので「たぶん」なんですけど。だからこの映画でも色んな曲が流れて、知ってる人は「◯◯Pのあの曲だ!」ってテンション爆上になることは予想できるけど、私にはどれもピンと来てない。むしろ最後のスタッフロールで「あ、この曲名は見たことある」「作曲・作詞のアーティスト名は記憶にある」という、ものすんごい歪んだ認知をしているんですね。
 作中で初音ミクが「あの人たちに、歌が届かない」って思い悩むシーンがあるんですけど(ていうかそれが主題なんだけど)、私は作中の理由とは全然別の要因で歌が届いてない人なので……なんか、その、すいません

 そういう明らかに作品が対象としていない視聴者から見ると、これ完全に「春映画」だったんですよね。ええと、平成仮面ライダーシリーズを見てる人にしか伝わらない例えだな。
 いわゆる「春映画」っていうのは歴代仮面ライダーが大量に登場する、だいたい3月〜5月ぐらいの期間に上映されていた作品群の総称で。いっぱいライダーでてきてワーイみたいなお祭り作品なんですが、短い尺に大量のキャラクターをブチ込んだ結果「元のライダーを知らないと基本説明不足」「別の世界観作品をひとまとめにするので設定がゆるゆる」「ストーリーも怪しげ」という要素が出やすい、ただそれだけに妙な魅力を持っているヤツなんですね。
 で、この初音ミク映画はそれと似ている感じがあって、4チーム16人ぐらいの明らかに設定的なバックボーンを持ってそうな登場人物が次々とあらわれるんです。これが「たぶん何か過去にあったんだろうなぁ」というのはわかるけど、それ以上の情報は特に無いまま話が進んでいくのね。さすがにコレ、ちゃんとボカロシーンを追ってる人なら分かるキャラクターたちなんだろうけど(だよね?)、この説明無しに「みなさまご存知でござい」という雰囲気全開で話が進んでいくのは「あ、きっと仮面ライダー知らない人が春映画見たら、こういう感じなんだろうなぁ」と思ってしまうわけですよ。
 あと「セカイ」っていう謎システムが、これどこまでボカロ界隈では常識で、どこからが映画独自なのかわかんないんだけど。えっとね、私が解釈した範囲だと、なんらかの独立した異次元空間があってそれを知人数名で共有できる。その異次元空間ごとに初音ミクをはじめとする各種ボーカロイドの独立した人格が住んでいる、例えばチームAの「セカイ」にはチームAセカイの初音ミクが、チームBの「セカイ」にはチームBセカイの初音ミクが「独立した別人」として存在しているわけですよ。だからたぶんどっかには「ユーザーと結婚した初音ミク」セカイもあるんだろうけどw

 それでストーリーとして、登場人物たちをはじめ色んな人が「初音ミク」を目撃する。本来は「セカイ」の中にいるはずの「初音ミク」が外部に出現することはないから、その「初音ミク」はどっかの「セカイ」から抜け出してしまった奇妙な存在なんですよね。
 その「初音ミク」が言うには、自分の歌が届かない人がいると。だからその人たちに歌を届けるため、他のミュージシャンとかエンターテイナーがどうやって歌を届けているかを知りたい。そのためにこうやって外部に出てきたらしいんです。
 しかもその届けたい歌というのが未完成で。それで登場人物たち4チームはそれぞれの解釈でその歌を完成させて、ライブなりなんなりで発表する。すると今まで届かなかった人たちにも、その歌が届く。その歌を聴いたことでポジティブな気持ちになった人たちの想いを受け取って、そのはぐれ「初音ミク」も自分の歌を完成させ、自分の崩壊しかけていた「セカイ」を再生させる……そんなお話なんですが。

 あの、これ大丈夫なんですかね??
 いやね、お話としてはちゃんとまとまってるし、各チームおよび初音ミクのライブシーンも綺羅びやかで良かったんですけど、これ「初音ミク」が好きな人は受け入れられんの? と心配になってしまったんです。
 だって、作中でまず初音ミクの歌が届かない人がいるわけじゃないですか。それで人間が代わりにその歌を完成させて、演奏して、届ける。そうなったとき「初音ミク」って必要ないんじゃない? って結論になるわけですよ。だって歌を作るのが人間で、演奏するのも人間なんだから、そこに「ボーカロイド」が介入する余地って無いわけよ。まぁ強いて言うなら依頼者ではあるんだけど、ボーカロイドの役割が依頼者でいいのかしら……。

 まぁそこには「最後には自分の歌を完成させて、初音ミクがライブやったじゃねぇか」という反論は当然あるわけだけど、そっちはそっちで大きな問題を抱えていて。というのも別に「初音ミク」は自動音楽生成マシーンでは無いわけよね、ピアノを放置していても勝手に作曲とかしないわけじゃない。なのにこの作品では初音ミクが自主的に曲と歌詞を作って歌うわけですよ。となると今度は作曲者も作詞家も、あるいは「初音ミク」の歌声を”調教”する人間も不要になっちゃってる。これはこれでクリエイターなりアーティストなりの否定に繋がってしまうわけですよ。
 だからこの作品、めちゃくちゃ不思議なことをやっている。片や「初音ミク不要」をやりながら、もう一方で「初音ミク以外不要」をやっていて、それが何故か同居したまま終わる。ものすごく混乱したお話をやっているの。

 そこを考えていくと、この映画が一番ターゲットにしている観客って「傲慢で自分勝手な消費者」なんだなというのが見えてくる。つまり誰がやってるとか、誰が作っているとかどうでもいい。自分たちが聴いて楽しい、嬉しい、感動できる曲さえ提供されるんなら、他のことはどうでもいい! そういう消費者に向けた物語なんですよ。
 で、それが良いか悪いかって言えば……これがねぇ、私は「それなりに良いこと」だと思うんです。だってクラシック音楽でもJ-POPでもジャズでも何でもいいんだけど、それを聴くときに詳しい知識を持っていて製作過程とかアーティストのスキルを鑑賞する方法もあれば、適当に聞き流してなんとなく気分が良ければいいなぁぐらいの温度で聴くことも当然ゆるされているわけじゃない。
 初音ミクが、というかボカロ曲全体が、そういう立ち位置になっている。新進の目新しい、だけど作り手も聴き手もその産まれたての文化を発展させていかないといけない緊張感のある時代が終わって、「ボカロ曲」というのが手放しでも成立する確固とした「音楽ジャンル」として成熟した証として「傲慢で自分勝手な消費者」が当然のように存在するようになった。
 たぶんもっと何年も前から「ボカロ曲」というジャンルはそのぐらいの成熟はしていたんだろうけど、最初に言ったように私はめちゃくちゃに疎いので、こうやって映画になることでようやくそれが認知できたんですね。

 でもやっぱちょっと「本当に大丈夫なの?」って気持ちはあるかな。あくまで外野も外野、そのジャンルにまったく無知な人間としてそういう余計な心配はしてしまいます。でもまぁ、好きな人が喜んでいるなら良いのか。良いんだろうな。

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 次回は『美男高校地球防衛部 ETERNAL LOVE!』評を予定しております。

 この話をした配信はこちらの15分ぐらいからです。


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