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一週遅れの映画評:『ドラえもん のび太の新恐竜』その選択に、宿る意志。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『ドラえもん のび太の新恐竜』です。

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 実を言うと今回はより困難な方に挑戦しようと思って。というのも前回のスプリンパン/ロボコン/人体のサバイバルがこうやって話するのがめちゃくちゃ難しい作品で、それでやっぱりこうやって自分の批評能力を上げたいみたいな欲望は当然あるわけじゃない?だからちょっと迷ったけど話すのが難しい方を選んだ。
 
 先週公開で見れたのが『ぐらんぶる』『ドラえもん のび太の新恐竜』の2本で、じゃあどっちが映画評として難しいの?って言ったら、それは当然『ドラえもん』の方なんですよ!
 
 これたぶん普段から作品の感想とかをアウトプットしてる人には「わかるー」て言ってもらえると思うんだけど、真正面から映画『ドラえもん』の話をするのってめちゃくちゃ難しいし、すごい勇気がいることなんです。
 
 まず超メジャー。メジャーってことはすっごい詳しい人もいっぱいいるし、様々な面から語られ尽くしているし、誰もが前提知識を持ってるから誤魔化しが効かない。これって本当に恐ろしいこと。
 その上で色んな論点を『ドラえもん』は持っていて、キッズ向けでありSFでありノスタルジックであり教育的でありエンタメであり……そういう「手軽に掘れそうなポイント」がいっぱいある。でもそれは結構な罠で、最初はサクサク掘れるけど、どんどん掘り進めるうちに硬い地盤にいきなりブチ当たって一歩も進めない。「あれ?この論点からだと、今作の芯には迫れないぞ……」っていう批評のミスリードみたいなものを食らいやすい。
 例えばもうすぐ続編のある『STAND BY ドラえもん』ならノスタルジー+教育+感動方面だし、1980年の『ドラえもん のび太の恐竜』はキッズ+SF+教育方向で掘るべき作品で、その入りを間違えると作品評としては行き詰ってしまう。
 
 その上で今回の『のび太の新恐竜』では、SF+キッズ+エンタメをベースとしながら、最終的なメッセージとして「選択すること、そしてそれに悩むことの肯定」というのがある。
 
 劇場版のドラえもんでは1980年の『のび太の恐竜』『のび太の恐竜2006』がすでにあって、これは実質3作目の「のび太がドラえもんの道具によって現代に復活させた恐竜。その出会いと別れ」なのだけれど、今回の『新恐竜』で特徴的なのは「2つの別れ」が描かれていること。
 
 ひとつはこれまでもあった「可愛がっていた恐竜を元の時代に帰す」という別れ。そしてもうひとつが「恐竜絶滅の瞬間に立ち会ってしまう」という別れ。この2つの別れが同時にのび太の身に降りかかる。
 
 ここからクライマック近くのネタバレね。
 
 巨大隕石が落下して、恐竜が絶滅する。けれどものび太は自分の育てた恐竜たちを救いたい。そこにタイムパトロールがやってきて「絶滅する定めの生物を生かすわけにはいかない」って言う。まぁ言っても良くある展開ですよ。
 ところがそのタイムパトロールの一人が「これに影響を与えると未来が変わっちゃうよチェッカー」みたいのを、のび太と恐竜に向ける。するとそのチェッカーがめちゃくちゃ反応して「彼らの行動を邪魔すると、歴史が大きく変わってしまう」ことが判明する。
 つまりのび太がこの恐竜を絶滅から救うことは「織り込み済み」の歴史に私たちは立っている、のび太が歴史を改変した「先」がいまなのだ!という展開になる。
 
 これって要は、言い方が難しいけどSFってある種の荒唐無稽さを孕んでいるというか、どっかのポイントに非現実的な事象を起こしてその変数を現実的に延長していくと……みたいな様式を持ってると思うのね。それを踏まえた上で「荒唐無稽がどこまで許されるのか」っていうのを考えたときに「のび太のワガママぐらい、受け止めてみせろ!」っていう話なんですよ、これは。
 物語としては結構ギリギリ。たぶん『ドラえもん』以外でやったら不評が出てもおかしくないんです。そういうストーリーの話もいっぱいあるけど、今回の『ドラえもん』に関しては伏線とかもほぼ無くてかなり唐突に都合がいいことやってんなぁ、って印象を受ける。
 でも私たちは『ドラえもん』って作品が山ほど作られていて、その中にはブラックだったり容赦ない終わりの話があることも知っている。だからこそ「今回はのび太のワガママを通していいんじゃない?」って気持ちにもなる。
 
 そういう都合の良さが表れるのが、その恐竜を生き延びさせる必要の理由。その恐竜は翼竜なんだけど、空を飛ぶとき羽根をひろげるだけの「滑空」ではなく、羽根を動かす「羽ばたき」によって飛ぶ。
 これが「恐竜から鳥への進化、そのはじめの一匹なんだ!」っていうのが解って、それでこれが歴史にとって重要な生存だと証明される。
 これってまぁ現代の進化論からすると普通に嘘じゃん。いきなり羽ばたき飛行を恐竜が身につけるわけないし、そのたった一匹の特異的な行動が遺伝するとも考えにくい。
 
 でもね、ドラえもんのスタッフなんてそんなことを当然理解してるんですよ、してないはずもない。
 
 だからここには色んな選択肢があった「学術的に正確な遺伝を描くか」「タイムパラドックスの問題をどう解決する(あるいはしない)のか」……そういった中でこのドラえもんはいま話したような展開を選んだ。
 
 ここからちょっと複雑な話になるんだけど、今までの『のび太の恐竜』シリーズでも今作でも、のび太からの「自主的な別れ」が描かれている。もちろん将来的に恐竜は絶滅するし、そうじゃなくても生き物である以上は死ぬし、永遠の別れがそこにはある。だったらのび太には「絶滅しそうな恐竜を救う」意味なんて根本的には存在してないわけじゃない。それでも「隕石による死亡から”は”救いたい」と願う。
 これって2つの別れの本質的な差。つまり能動と受動の違いへの言及であるのね。
 「悲しいし辛いけど、その別れを選ぶ」っていう行為と、「どうしようもない現象で、強制的に別れる」という結果。それは絶対に違うものだ!ということで。
 選ぶことは難しい、どうしたって辛い、だから悩む。だったら隕石によって結果が勝手に決まってしまえば楽ではあるわけで、でものび太は「自主的な別れ」を受け入れつつも「強制的な別れ」には対抗してみせる
 
 これがつまり「選択すること、そしてそれに悩むことの肯定」ってメッセージであり、同時に進化論やタイムパラドックスの描き方について作り手もまた「選択すること、そしてそれに悩んでいた」ことの表明、この/今回の『ドラえもん』としてはこれが正しいんだ!っていう決意の表明に見えました。

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 この話をしたツイキャスはこちらの13分ぐらいからです。

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