一週遅れの映画評:『仮面ライダー555 パラダイス・リゲインド』ワガママな命の先で。
なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かして配信で喋る。
その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。
今回は『仮面ライダー555 パラダイス・リゲインド』です。
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一応この映画評は「火曜日に観たものを翌週の月曜に話す」ってサイクルでやってますが、まぁ映画ってだいたいが金曜日に公開するんですよね。じゃあなんで火曜日に観るかって言うと、単純に公開日と土日は映画館が混むからで。月曜はこの配信があるしね。
それでも時々、金曜の公開日とか土日に観に行くこともあるんですよ。ごくごく単純に火曜日に用事があるとか、あとはガチのキッズ向けだと平日は夕方以降の上演がなくて仕事帰りに行けなくて……とか。
で、それにも該当しないケースに「一日でも長くこの作品について考える時間が欲しい」パターンがございまして、だって金曜に観れば金土日月で4日も猶予が生まれるじゃあないですか。その場合っていうのが、この映画は難解そうだなぁとか、たぶん調べ物(背景知識とか原作の確認とか)が必要そうだなぁというのもあるんですが、一番多いのは「ちょっと気持ちを落ち着けるために時間が欲しい」なんですよね。今回『パラリゲ』こと『仮面ライダー555 パラダイス・リゲインド』は金曜の公開日に行っております。
つまりですねぇ! 私は仮面ライダーシリーズで『555』が一番好きでぇ! その『555』の20年ぶり新作なんですよぉ! これが冷静でいられるか!
いやもう全然無理、あと半年くらい時間ください……。乾巧だって20年間行方不明になってたんだから、私があと半年くらい猶予を貰っても良くない!? 自分で作品選んで勝手にやってるだけなのに、なんて矛盾とワガママを剥き出しにした言い草をしてるんだ、私は。
でもさ、『仮面ライダー555』ってテレビ本編もパラダイス・ロストも、今回の『パラリゲ』もそういう話だと思うんですよ。
そもそも全作品を通して「人間とオルフェノクは共存できるのか?」っていうのが中心にあるわけじゃあないですか。人間だって生きていたいしオルフェノクだって生きていたいのは当然なんだけど、それでも圧倒的な力の差がある。なのに生身では強い方のオルフェノクが、根本には破壊衝動を抑えるのが難しいって生態を持ってしまっている。
そういう危険な生物と果たして同じ社会で暮らしていけるのか? ってまぁまぁの無理ゲーなわけですよね。これをテレビ本編では「夢」っていう共通点を置くことで達成しようとした。つまり人間にもオルフェノクにも、生きていくうえで叶えたい願いがある。そこにはそれぞれの生き物がどうであろうと共通している、という視点が入ることで「じゃあその夢を叶えるためには、死んだらいかんよね」という立場から人間もオルフェノクの同じように生きていかなきゃいけないよって結論に至るわけですよ。
これって実は「共存できるのか?」って問題を一度棚上げしている、共存できるできないに関わらず「生きているべきだ」ってことなのだから。オルフェノクはついつい人間を殺してしまうし、それに抵抗するため人間はオルフェノクを殺さないといけない。そういう関係を持ったまま、でもどっちも生きてろ! という話になるのだから、『555』って作品は盛大な矛盾を抱えているわけですよ。
だけどそれは「矛盾を抱えてるからダメ」ってことじゃなくて、全50話を使って「ヒトはそういう矛盾を抱えて生きていくしかない」を描いているのが『555』という作品なのです。
っていうね。どちらも護りながら、どちらとも戦う。そういうワガママを貫こうとする形で。
そこに「俺には夢がない」つまり「生きていたい」という感覚が希薄な乾巧という主人公が、両方の「生きていたい」の間に立って矛盾する願いを調停しながら苦しんだ果てに、「もうすぐ自分は死ぬ」ことを知りながら「もうちょっとだけこの世界で生きていきたい」と思えるようになって穏やかに笑うラストになるわけよ。
そういった点でテレビ本編は人間とオルフェノクが戦力と人数と権力を総合すれば、まぁほぼ対等(かオルフェノク側がやや不利)ぐらいのバランスになっている。それで『パラダイス・ロスト』では、その拮抗が崩れて「オルフェノクが社会を支配した」パラレルな世界が描かれているわけよね。そして両者の調停をする乾巧/ファイズはグッと人の側に立って戦い、最後はオルフェノクと人間、つまり巧と真理のふたりが手を繋いで去っていく。この世界で人間は近いうちに恐らく絶滅するんだけど、それでも残された時間をふたりで生きるエンドなわけですよね。
で、ここから『パラダイス・リゲインド』なんですけど。こっちでは人間側が20年間で組織的にも戦力的にも強化されていて、オルフェノク側がレジスタンスとして活動するようになっている。その中で再び乾巧は、あれよね「壁と卵なら、私は常に卵の側に立つ」じゃないけど弾圧されているオルフェノク側として(最終的には、だけど)戦うことになる。
今回スマートブレインが開発した新型の仮面ライダーミューズはAIによる予測システムを搭載しているわけですよ。つまり論理性によってひとつの回答に帰結することを体現したシステムで。これってもう真正面から非論理性と複数の回答を持つもの、つまり「矛盾」を排除しようとする戦い方なわけよ。そしてテレビ本編からもそうであるように、乾巧は「矛盾を抱えて生きる」ことを選んだわけだから当然のように対立する。
どうしたってオルフェノクという存在は危険だし、人間の社会においてはリスクなわけ。それでもなお「生きていたい」を護るために仮面ライダーファイズは戦う。それって「社会のリスクや危険を維持するヒーロー」っていう、テレビ本編に輪をかけて「矛盾する正義」を描いているんですよね。
多様性だとかいう話の大前提として「誰もが生きていける」ことがあって、それはその「誰」がいくら危険で社会にとってリスクであっても生きていて良いってことじゃないですか。それを受け入れていくことって怖いし嬉しいことじゃないけど、それでも、だとしても、そういう「誰もが」生きていけることが、そういう「誰もが」生きていけるよう護ることが(そして時には論理的な正しさと戦うことが)正義であり、ヒーローであるわけで。
さらにはその危険性を持つ当事者が「でも生きていたい」っていう、ある種のワガママ。社会にとって邪魔でリスクであっても、自分は生きていくんだってワガママを貫く。そうやって良いんだ、ってのがテレビ本編の『仮面ライダー555』から20年先で語られているのよね。
それでね。『パラリゲ』で暗に語られているのが「オルフェノクの間に子供が生まれていない」ってことで。若いオルフェノクはいるけど、彼らの両親に関しては語られていないし、オルフェノク同士のカップルが出てきて「弾圧されている生き物」を描くのに、その間に生まれる子供の話をしないのは(『パラダイス・ロスト』では人間の子供ははっきり出てきたわけで)意図的だと思うんです。
で、で、『パラリゲ』では巧が真理を抱くシーンで、わざわざふたりともオルフェノクの姿で抱き合い、画面では二本のオルフェノクカラーをしたツタみたいのが螺旋状に絡み合うイメージが描かれている。これってDNAの二重螺旋構造と、その合成。つまり生殖ですよね。だからここで「オルフェノクの間に初めて子供ができる」ことが暗示されているわけですよ。
そこで思い出して欲しいのが、テレビ本編で登場した「子供のオルフェノク」なんですけど。ひとりだけいるんですよね、子供の姿のままオルフェノクになった登場人物が。
それは最終エピソードで出てきた「オルフェノクの王」なんですよ! このオルフェノクの王は「全てのオルフェノクに永遠の命を与える」存在とされていて、力が強い代わりに極端に寿命の短いオルフェノクにとって希望でもあると描かれていたわけです。まぁこれは既存のオルフェノクを生き延びさせるという、人間とのパワーバランスを完全に破壊する存在としてテレビ本編では撃退されてしまうんですね。
で、この『パラリゲ』で描かれる巧と真理の子供(が生まれる可能性)は、そういった「自分たちを生きながらえさせる」ものではなく。あくまで巧の寿命は結構ギリギリだし、なんなら真理もオルフェノク化したことで短くなったことを前提としながら、だけど「自分たちの命が繋がっていく」ことを示しているんです。
テレビ本編でも『パラダイス・ロスト』でも、「この先は終わりがくるのだけど」ということしか描けなかった『555』が、長い時間を経て新作、つまり「新しい子供」を生み出せたことと、オルフェノクの間にも「新しい子供」が生まれることで「この先も続いていく」ことを描いている。その最後に見せる希望が、テーマと作品それ自体で一致をしてる。もうね、大感動でしたよ。
やっぱ私、『555』が好き。めちゃくちゃ好き。
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次回は『夜明けのすべて』評を予定しております。
この話をした配信はこちらの13分ぐらいからです。
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