
二)レジェンドと呼ばれた男
レジェンドと呼ばれた男
大学を卒業するとすぐ、彼は地区の大型建材店に勤務した。彼にとって別子飴は、親戚のおじさんがやっている会社であり、配達などのアルバイトとして手伝ったことはあるので、どんな仕事をしているのかは知っていたが、自分が経営者になる時が来るとは思いもしなかった。
しかし、そのおじさんが急に亡くなり、秀司の父がその後を継いでから彼自身の将来に対する思いも少し変化した。
彼の父は彼に店を継ぐなと言ったが、彼は今でも空手形だったが継いだというが、実は当時の彼には自信があったはずだ。それは彼が後にレジェンドと呼ばれるほどの男だったからだ。
彼は大学を卒業後就職した愛媛県内の大型建材店で、すぐに頭角を現した。優秀な営業マンとして出世もとんとん拍子であった。
彼は決して饒舌な営業マンでもなく、心にもないおべっかを平気で言えるような男ではなかった。つまり海外からやってきた営業スタイルを取り入れてスマートな営業をしたわけではない。むしろ、人と人の心のつながりを大切にする、至って日本人的な営業スタイルだった。
あいさつや言葉遣いにはもちろん注意を払うが、彼がもっとも彼らしかったのは、取引先で行われる冠婚葬祭への対応だ。その中でもご不幸があったときには昼夜を問わず対応した。
もちろん営業マンとして走り回っている訳だから、そういう場合でも喪服に着替えることができないこともしばしば、しかしとにかく駆けつけることは愚直に行った。
それが当たり前だと思っていた。それは営業マンとしてというよりも、むしろ彼自身の人間性から出てくる対応だった。こうした対応は打算的な営業スタイルと異なり、取引先の人々の心に届き、そしていつまでも消えないものだった。
彼がその会社を辞して別子飴本舗の社長になり20年以上経った今でも、当時のそうした付き合いを保ち続けている人も少なくない。それこそが商売を離れた人と人とのつながりだった。
こうした営業スタイルで実績を重ね続けた彼は、会社での業績も上昇カーブを描き、将来も非常に明るく開け、社内からも出世は当然と思われていた。
そのサラリーマンとして絶頂期を迎えつつあった彼が、家業とは言いながら退職することは会社にとっても大きな痛手だった。
会社での彼の状況を理解していた彼の父は、順風満帆な状況を捨ててまで、毎年売り上げが下がり続ける会社を継がせることはできなかったのだ。
しかし、彼は決心する。順風満帆な地位を捨ててあえて渦中の栗を拾おうとする彼は、後に社内でレジェンドと呼ばれるようになった。
(敬称は省略させていただいています)