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死生観。両親が離婚後、祖父母との関係性は変化する。気を遣うべきは子どもなのか。
今日祖父が亡くなった。93歳だか95歳だったような気がする。
幼稚園に通っていた頃、父と母は離婚し母について行った私は父方の祖父との記憶はあまりない。祖父は孫想いではあったようだが残念ながら何かをしてもらったような記憶は残っていない。
両親の離婚後も父とはたまに会っていたのだが、祖父祖母とは会っていなかった。その後、私に子どもができた時、約10年ぶりに会う事になった。
久しぶりに会った祖父母は元気そうだったが、どのように接していいか分からなかった。
「この場面では敬語を使うべきなのか?」
親が離婚した後の子どもの立場って本当に大変で、気を遣うんですよ。一旦孫を見せることができたので、祖父母孝行は十分だろうというところで、お盆と年始くらいは顔を見せようと心がけていました。
祖母は比較的元気でしたが、祖父がパーキンソン病に罹ってしまったんですね。そこからの進行速度は速かったです。祖父のボケから始まり、歩けなくなったりと、会話してても何を話しているのか分からなかったり。
この時から死生観と向き合うようになりました。幼い頃から親族が亡くなる経験と云うのを経験したことがありませんでしたので、自分はどう感じるのかと。
少し前に18年間生きてくれたペットの犬が亡くなった時、仕事中に涙しました。寂しさももちろんありました、仕事で手が離せず葬式にも行ってあげられず、不甲斐ない自分にも嫌気が差したという感情も重なったからです。
どんどん生気がなくなる祖父を見ていた時、正直哀れみに近い感情を抱きました。祖母は「早く亡くなったほうがいい」と言っていましたし、父に関しては「亡くなったら日本を離れる」と言っていました。
祖父はこの世になにかを残すことができたのか、後悔はないのかと強く考えるタイミングがありました。この時の状態で亡くなるしかないのかと。それともしぶとく一世紀生き抜くのか。祖父にそのような目標があるとは思えませんでした。
死ぬ手前に公開するか否かは、今まで自分が歩んできた人生で決まると思います。自分勝手に生きれば、亡くなる時も自分勝手に消えていく。その反面、周りへの感謝を忘れずに生きた人は、それ相応の幸福がある。
2025年2月1日深夜、突然の父からの連絡で祖父の死を知ったわけですが、涙するような感情は生まれませんでした。悲しみは親族だからという理由だけでは芽生えないと知りました。父への心配も特になく、自分は冷酷な人間なのかと思いましたが、ただ、悲しむための材料があまりに少なすぎる。
通夜や葬式がこれからあると思うのですが、ひとまず参加して祖父を見送ってきたいと思います。
ここまで読んで頂きありがとうございます。複雑な家庭環境で育ったと自負していますが、今日まで死生観と向き合うようなタイミングは一般的に少ない人生でした。ペットが亡くなったり、友達の父が亡くなったり、会社の先輩が自〇したりとありましたが、自分が向き合うべきはペットのココちゃんの時だけでした。
愛犬の葬式には行けず、なぜか先輩の葬式には行くという謎の行動をしてしまう私のような人間はどこかネジが飛んでいるのだと思います。
さて、そんな私が書いた小説をkindleで公開し、amazonで販売しています。無料版はnoteで公開しています。死生観と向き合ったことのない私が書いていた作品は果たして正しい死生観を描けていたのか。改めて読んでみたいと思います。
暗い内容になりましたが、ぜひ今後もよろしくお願い致します。