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80年代から今に続く”面白くてカッコイイ”ことを見てきた渡辺祐さんにインタビュー!

80年代から今に続く“面白くてカッコイイ”ことの出演者や編集者、ラジオパーソナリティ、構成作家の名前の中に、ついつい「渡辺祐」の名前を探してしまう。そして、驚くばかりの高確率でその名前を発見してしまう。
話は若干逸れるがハリウッドには「ベーコン数」という計測方法がある。俳優ケヴィン・ベーコンがあまりに多くジャンルの映画に関わるために、誰もが彼と関係値があることを真面目かつ、ふざけて表したものである。おそらくスペシャをはじめとする音楽やカルチャーの人物相関を表す計測方法があるとすれば確実にその中心点は渡辺祐である。そして、“面白くてカッコイイ”ことは「タスク数」によって表されるのだ。スペースシャワーTVと渡辺祐の「タスク数」高めの話を聞いてみた。

☆スペースシャワーTVに関わるようになった経緯を教えてください。

それでいうと開局前からですね。その頃(1988〜89)開局の準備室というのが五反田にあって、音楽の専門チャンネルを作って面白いことをするからその準備とかに関わって欲しいと。
その準備室にスペースシャワーTVを作るために色々なスタッフが集まっていた訳です。

☆準備室にはどんな人たちがいましたか?

その時は6〜7人くらいかなぁ、いたのは。今の社長の近藤正司さんもいましたね。
当時、私はフリーの編集者や放送作家をしていて、ちょうどその頃までは雑誌『宝島』に連載していた面白いものや、ヘンテコなものを集めて載せている『VOW』というページの編集を担当していました。それがちょっと評判になったタイミングでしたね。
同時にアーティストのツアーパンフの編集とかも結構やっていたんですよ。なので音楽業界にも近い。テレビと音楽という部分で言えば、経験もあるし、原稿が書けて台本が書ける。色んな要素が向いている訳じゃないですか、自分が言うのもなんだけど(笑)。そういうのもあってスペシャのスタッフから呼ばれたのだと思います。

☆準備室ではどんなことをしていたんですか?

覚えているのは、当時、まだ衛星放送自体が広まってなかったから、それも含めて業界へのお披露用に解説ビデオを制作しましたね。その構成に自分が参加して、出演はいとうせいこうさんちわきまゆみさんだったはずです。
記憶も曖昧だけど、ニューヨークで撮影したり、大友康平さんが出てきてGuns N' Rosesを紹介したり、杏子さんが出ていたり、ストリート・スライダーズのミュージックビデオを流したりとか。
映像とは別にパブリシティ用のフライヤーもあって、そのフライヤーも作りました。映像と紙の二刀流で、目論見通りですね(笑)。

実は、当時の一部のスタッフとはスペシャが立ち上がる前から仕事をしていたんですよ。ワタナベプロダクションの映像制作会社があって、一緒に「ビデオマガジン」っていうのを作っていたメンバーですね。1本のビデオの中に旬なアーティストのクリップ(MUSIC VIDEO)とか雑誌風に色々な企画のものが入った90分くらいのものを月に1本売る、みたいなことをしていまして。今の人にしてみれば、なんのこっちゃみたいな感じですけど(笑)。
そのディレクターやプロデューサーがスペースシャワーのスタッフになっていったんですね。
もちろん、メインの出演者となっていくいとうせいこうさんもよく知っているし、ちわきさんはデビュー前から知っているから、そんな人脈でまとまっていった感じですよね。

☆開局前の出演者キャスティングなどには関わっていたのですか?

VJのブッキングは中井猛さん(元会長)たちがやっていたから、私は関わることはなかったですね。当時、大阪のFM802の勢いもすごかったから、そこからの人選もあったし、新しい人も欲しかったというのもあったと思うんですよね。いわゆる地上波に出てるような人じゃなくて、違うタイプで考えていたと思います。
私も開局から1つ出演番組を持っていたんですよ。いや、「出さされた」が正解なんですけど(笑)。ソウル・R&B・ヒップホップ系の番組で生放送で3時間くらいある。最初、シンディ鈴木さんという女性VJだけが決まっていて、でも1人で生放送3時間も大変だろうし、男女のコンビがいいって話になっていたらしい。開局が近くなった頃に、ある日、開局の編成表っていうのが出来てきて、それを見たら、そこに勝手に出演者として俺の名前が入っていたんですよ、VJ シンディ鈴木と渡辺祐って。聞いてないんですよ、そんな話(笑)。そしたら当時プロデューサーだった近藤さんが「あ、ごめんごめん、誰か名前入れなくちゃいけなくて」って。放送の数週間前ですよ。覚えているだろうから、聞いてみてください、近藤社長に(笑)。
特に当時は少人数で、しかも忙しい状況だったから、えい、やってしまえ!ってノリはあったと思います。その頃、たまに『タモリ倶楽部』とかに出演していたこともあったからだとは思いますが。そういうのもあって出演しても問題ないって思ったんでしょうね。ソウル・R&Bに詳しいし、当時、30歳くらいのフリーランスですし、来た仕事は断らないだろうというか(笑)。そんな風に、色々、小器用にやらせてもらいました。

☆その頃の番組にはどんなものがありましたか?

毎日、日替わりで内容が違う約3時間の生放送の帯があって、あと1時間の収録ものでVJがいる番組とライブ番組ですね。もちろんチャートのカウントダウン番組もありました。それがスペースシャワーTVの初期メインの番組編成でした。
初期は、まあ、超大物はブッキングできなかった訳ですよ、メディア自体が認知されていないんだから仕方ないんですが。音楽チャンネルだけれども、ゲスト・ミュージシャンもそこそこ限られるので、トークパートのある番組は、話が面白いという意味でいわゆる文化人とかクリエーターとか、他のジャンルのアーティストとか、スタッフ側の我々が興味がある人をブッキングしていましたね。地上波で言えば深夜番組っぽい、そういうのを一日中やっているような感じでした。

☆例えばどんな人がゲストに来ていましたか?

いとうせいこうさんの番組『ゲバゲバゲリラ』は、ゲストを呼んで、とにかくずっとしゃべっているっていう番組でした。時折、クリップや資料的なライブ映像が入るぐらい。そこに「え、誰?」っていう人から「こんなにすごい方が!」っていうゲストが来てくれていましたから、すごく面白かったですよ。
例えば、まだ全然売れてない、というか無名の山田五郎さんとか、川勝正幸さんとか。篠山紀信さんも登場していますね。もちろんすでに大カメラマンで、スペシャのトーク番組に出てくれるなんて思っていませんでしたよ。それでもいとうせいこうさんだからっていうことだったのかな、番組にきてくれてましたね。
その頃のVTRを見返してみると、タバコを吸いながら、トークしてる回があるんですよ(笑)。飲み屋で喋っている感覚っていうか……1989年ってそんな時代だったかな。その頃の地上波でもそんなことできなかったと思いますよ、だいぶ自由でしたね。

☆ゲストの人選も含めてスタッフは大変そうですね。

いまの時代らしい面白いってことを取り上げた方がいい、というスタッフの思いつきも含めて相当熱量があったと思います。プロデューサー、ディレクターが率先してそういう面白い人を見つけてブッキングしていましたね。主にディレクターのアイデアが大きかったんじゃないかな、みんな若かったし。私とか近藤さんとか、ある程度の業界経験者組が30代で、ディレクターとかのスタッフはみんな20代。しかも、経験者が少なかった訳ですよ。いわゆる民放経験があるとか、ディレクター経験がある人が少なかったから、もう自己流でやるしかないんだよね。
あとは人が人を呼んでくるみたいな会社でした。ミュージシャンとか、レコード会社の人とか事務所の人とかって、スペシャがなんなのかわからなかったと思うんです。これは出た方がいいのか? みたいな。世の中的にも一応宣伝はしているけど、今で言うバズってるっていう感じでもないわけだし。だからブッキングも人が人を呼んでくるような状況でした。知り合いから次へクチコミで「スペシャの誰誰さんが出て欲しいって言ってるみたいよ」とか、そういうことが多分あったと思うんですけどね。FM802系のVJさんの繋がりや、いとうせいこうさんやちわきまゆみさんの繋がりからゲストに来る方も多かったと思いますよ。

☆当時のスタッフで印象深い人はいますか?

スタッフで思い出深いのは、ディレクター陣ですね。後にミュージック・ビデオやライブ映像で有名になっていたメンバーも、いわゆる駆け出しでしたから。
例えば、後にスチャダラパーの作品とかに関わっていくタケイグッドマンは、初期のスペシャで流れたヒップホップの番組を学生時代に見ていて、「ヒップホップでこんなに自由に番組が作れるところに行きたい」って入ってきたらしい。
エピック・ソニーの映像部の経験があったディレクターのエピソードも忘れがたい(笑)。彼は経験があったわけですが、非常に自由な人でして。当時、それこそ私がでていた番組で、フロアーディレクターとして生放送中はカメラの後ろにいて、インカム付けて、喋りだしのQUEとか指示をしてくれているわけですけど、VTRが流れていて、そろそろスタジオに戻ってくるっていうタイミングに彼の姿がないわけですよ。後から聞いたらトイレに行っていたらしいんだけど(笑)。とにかく、あと何秒で戻ってくるかの指示をする人がいない。少人数で作っていましたから、そのスタジオの中でインカムをつけているのは、唯一カメラマンだけ。しょうがないからカメラマンが出演者に「3、2、1」ってQUEを出してくれた(笑)。そういう生放送中のどうしようもない状況でも当時なんとかなっていましたね。
そのカオスの中で、常識がある女性スタッフが、ディレクターたちの服装とか態度とかを叱ってる。ビーチサンダルで会社に来ないでください! 靴紐を結びなさい! ゲームは19時までやっちゃだめ!……とかね(笑)。

☆当時のスペシャで他に印象に残った事はありますか?

ちょっと話が戻るけど、準備室のころ、中井猛さん(元会長)が「スペースシャワーにとても大事な日がある」って言うんですよ。それが何かっていうと、スペシャの電波を中継する衛星を打ち上げる日。実は衛星を打ち上げることには、微妙に失敗する可能性がある、と。それは確かにそうですよね、ロケットの打ち上げが失敗する確立はそこそこ高い。でも、失敗したら何億、何十億ってお金がなくなる可能性がある訳なんですよ。いわゆる国家戦略レベルの事業な訳ですね。他にも開局するためにカメラだの編集機だのにも莫大な金額かけてるし、スペシャだけでも1社、会社を立ち上げている。もちろん他のチャンネルもあって、スタッフ雇って準備している訳ですから、とにかくすごく「ちゃんとした話」なわけですよ。
なのに、会社の扉を開けると若い、ちょっと訳わからならい奴らがワッシャー!って番組を作ってるっていう(笑)。ものすごい大人の話と、学祭の延長線上くらいのノリのギャップが面白かった。
私も含めて、関わっていた経験者組が、上の人の大人の事情も聞きつつ、若いディレクターたちの感じもわかっていた、そのポジションもよかったんでしょうね。もともと関わっていた『宝島』という雑誌も、80年代頭に私が入った頃は小さい出版社でしたし、同世代の人たちでわさわさ集まって何か新しいものを作っていく、その面白さっていうのがすごく似ていた。面白がる方で乗っかっていたから気楽なものでしたけど、そうじゃない、経営的な方で携わってきた人たちはきっと大変だったと思いますよ。

☆スペースシャワーが生まれた時代を今どうご覧になっていますか?

特にスペースシャワーでピックアップされるような「刺激的な音楽」や「面白いこと」っていうのが、すごく多様だったと思います。いい意味でシロート臭い。音楽では、そんな感覚から派生して、後に「渋谷系」という括りになっていくわけですよね。当時、そんなにはっきりとした集団意識はないけど、面白いものを並べていくと「多様だけどつながっている」というような「感覚のまとまり」が生まれてきた時代だった気がします。その多様でニッチだけど面白い、という感覚の背景になっているのは、まちがいなくDJカルチャーですね。ただ、その「面白いこと」がお茶の間にまではまだ伝わってなかったような気がします。だから『宝島』やスペシャの存在がユニークだった。
今にして思えば、大事だったのは「CDがものすごく売れていた」ということ。CD売上のピークは1998年頃だったわけですから、スペシャのスタートからの10年間は音楽業界自体が潤っている。だからこそ、その大波の中ではサブの位置にあるアーティストがたくさん登場してきたのだと思います。そこがスペシャの目の付け所で、結果的に「グルーヴ」になっていったわけですよね。

☆開局した89年から90年代にかけての他メディアはいかがでしたか?

まず、雑誌にすごく勢いがありました。時代を象徴する「何か」を知りたいんだったらまず雑誌っていうのがありましたよね。地上波のテレビは、どうしてもお茶の間っていうか、年齢層の幅が広いですから。深夜帯の番組は、いま以上にエッジイだった部分もあるんだけど。
ネットが普及していない時代ですから、例えば洋服屋でそこにかっこいい洋服があっても、瞬間的には伝わらないわけですよ。有名人がそこに出入りしたり、スタイリストがピックアップしたりして、その服を着て撮影する。それを雑誌とかで見て、「この服かっこいい、どこの?」みたいなね、それこそ時間をかけながら広まっていったんですよ。足を使い、情報を集めて作っていましたし、いま見返してみても20年前の雑誌は面白かったですよね。クチコミから足を運ぶ、その繰り返しをして取材していましたね。
ラジオは、東京ではJ-WAVE、大阪ではFM802 がほぼスペシャと同時に開局していますね。開局当時のJ-WAVEでは邦楽が流れない、ほぼ洋楽オンリー。そんな中で何曲かは、邦楽でもこれはいいっていうのが出てくるんですよ。例えばオリジナル・ラブだったり。そこから少しずつトビラを開けていって、J-WAVEでオンエアされる邦楽曲が「J-POP」として知られていく。
とにかくヒット曲より、いわゆるオシャレな音楽に特化していて、しかも「More Music, Less Talk」と言われていて、しゃべりも少ない。個人的には、今のJ-WAVEによく出られているなと思います(笑)。FM802の方はもう少し間口が広かったですよね。ロックよりではあったと思うので他とも差別化できていたイメージです。まあ、radikoもないからそんなには聴けていないんですが(笑)。
ラジオも聴取率の世界ですから、人気のあるゲストを呼んで、ヒット曲をかける、という構造は当時も今もありますが、特にJ-WAVEは時間帯やリスナーの気分に配慮して、ちゃんと選曲したものを流しているという、そのスタンスが画期的でしたよね。

☆音楽の聴き方はどうだったのでしょう?

前の話にも重なりますけど、音楽の選択肢が多かった、いや「多くなった」と感じたのは覚えてますね。そこからセレクトした音楽の情報をスペースシャワーは一度に全国に振り撒けるわけじゃないですか。まさしくシャワーのごとく。しかも、VJのしゃべりの熱さとか、ちょっとしたDJ的なつながりの演出で届けられる。その面白さは感じてましたよね。
逆にネット時代になってからは、情報の伝達はすごく速いんだけど、なんかトンネルの中をそのスピードで通っているみたいな感じかな。周りの景色が見えないっていうか。「これ面白いです!」っていう情報だけは来るんだけど、その余韻みたいなものがあまりないっていう感覚ですかね。
雑誌とかスペシャとかもそうだったんだけど、ある時間の中で、ページをめくっていった時に急に違うものが出て来るっていうところが面白かったのかな。

☆スペシャが変わらない部分はどこですか?

いま一番面白い音楽、いま一番面白い人物にフォーカスしていこう、そこに突っ込んでこう、みたいな感じっていうのは会社が大きくなって、大物アーティストが出るようになったとしても変わってなかったと思います。おとなしく誰もが見やすいみたいなことを目指す前に、もうちょっと面白がろうっていう感じはあんまり変わってなかったかなと思いましたね。
象徴的なのはやっぱり、いとうせいこうさんだったりすると思うんです。
地上波の番組のいいところ、形式的にはクイズ番組とか、学園コント的な舞台装置とか、昔からある「面白い」手法を取り入れる技量があるから、そこをしっかりやりながら、ただスペシャの場合、出演者が全員バンドマンだったりする。それはスペシャでしかできないでしょう、みたいな。そのいいとこ取りがすごくうまい。『夕陽のドラゴン』もそう思いますね。面白いキャラが二人いて、その人たちが自由になにかやるっていうのは、他にもあったと思うんだけど、当時、トータス松本さんユースケ・サンタマリアさんは、有名だったわけじゃないでしょ。その「音楽と○○」を結びつけるスタイルは変わらない部分ですね。
あと、ぶっちゃけ、やめようと思ったらやめられるっていう、良くいえば臨機応変な編成方針(笑)。確信犯的にやっていたかもしれないし、結果論かもしれないですけど、結果論は「始めてみた」からあるわけですよ。もし、スペシャが、始める時から結果が見えているような、おとなしいことばかりをやっていたら、音楽業界も何かが違っていたかもしれないですね。
変わったことで言えば、スペシャが会社として成長をしてからは、事業の数が増えたじゃないですか。マネージメント、レコード会社、出版、イベント関連、店舗経営とか。
そうなってくると、最初は単純に番組作りに集約されてた「雰囲気」のようなものが、事業の拡大とともに立ち位置が変わってきて、その芯みたいなものが少しふんわりしちゃった感じはあるのかなあ。
時代が変わる、インフラが変わるときって、そっちの新しい方で面白いことがやれている人が出てきてくれないと、旧メディアでやっている人の気付きが遅いと思うんですよ。
スペシャも含めたBS、CS、ケーブルTVの多チャンネル化が、あの頃に地上波や雑誌の人たちに与えた刺激が、今度はネットで起こってきましたよね。だから、スペシャにも配信でこんなに面白いことができるんですよっていう若手が出て欲しいと思います。
我々のようなオールドスクールな人間はそれに驚かされつつ、いいとこを貸し借りする、そんな合わせ技とかもできると思うんですよ。
生活の中でのテレビに向かう瞬間って、みんなどれぐらいなんだろうと思います。人間、24時間365日の限られた時間の中にいますから、仮に映画好きでも、Netflixも見て、映画館も行って、あとレンタルとかで探してってことはなかなかしなくなりますよね。その「オレ流メディア術」が進む中でも「あそこの配信は面白い」とか、そういうウワサになる位置にいて欲しいなと思ってます。

☆最近の音楽はどうですか?

個人的には、J-WAVEでレギュラーを持たせていただいていることもあって、この歳にしては(笑)、新人の情報も新曲も聴こえてくるし、実際にゲストにも来てくれますから、いろいろと聴いたりはしています。
それでいつも思うのは、今の20代前後のアーティストって親が40代〜50代じゃないですか。それこそ親世代が「渋谷系」だったりする。いわば「スペースシャワー世代」ってことですよ。特に自身がアーティストになった若い人たちは、親世代の影響を素直に受けている人が多くて、聴いているものの幅にあまり違和感を感じないことが多いですね。60年代の佳き時代の音楽も聞けば、最近のK-POPも聴いているっていう。だから話にもそんな困らないというか、全然わからないですっていう感じはないですよね。まあ、ボカロ以降の感じはちょっとわかってないのも事実ですが(笑)。

☆最後にスペシャに対して思うところあれば教えてください。

初期に関わっていた人間としては、「TV」でのヒット番組は欲しいですね。やっぱりスペシャは音楽をいじらせたら面白いねっていう番組をもうひとつ、何か見せてもらえないでしょうか、という。
もちろん配信の方に移っていくのはわかるんだけど。世代もぐるっと一回りして、スタッフも若返っているわけだから、その世代なりの何かができないのかな、と思ったりもしますね。
さっきも言った、始めていなければ結果もない、ということで言えば『スペ中』に出ていた池ちゃん(レキシ)が、あんなに人気者になったのも、そのひとつじゃないですか。そういう逸材をスペシャらしいセンスで見つけてきて、面白く世の中に送り出すということを、これからも形にしてもらいたいと思います。
いやあ、しかしそう考えると『スペ中』に出ていたメンバーもいい歳になっているんですねえ(笑)。


渡辺祐さんがナビゲーターのラジオ番組はこちら↓

RADIO DONUTS : J-WAVE 81.3 FM
https://www.j-wave.co.jp/original/radiodonuts/

祐さんありがとうございました!!



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