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【取り戻すための音楽回想録】vol.3 「東京」と僕の1996年

どうも。映像ディレクターの菊池です。

「取り戻すための音楽回想録」
今回も忘れてしまった遠い記憶を自分の元に取り戻していきたいと思います。

前回前々回は僕の1989年を取り戻しました。
今回はそこから少しジャンプして1996年を取り戻してみることにします。

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1996年は僕が青森県から上京してきて2年目の年。上京と言いつつ正確には東京ではなく、埼玉県川越市に住んでいた。初めて最寄りの的場駅に降りた時は、地元の駅と変わらないサイズ感と風景には拍子抜けしながらも安心した。

当時の僕は19歳。大学2年生。花の都・大東京に憧れ上京したものの東京ではなく、その北に位置する埼玉県の西側・川越にある大学に通うため近くのアパートに住み、たまの週末に渋谷や原宿に用もなく出かけたりするくらいで、特に何にもしてない日々を過ごしていた。

そんな中のある日、大学の前にあったCDショップに立ち寄ると試聴機の横に「Quick Japan」vol.9が面出しされていて、表紙には「サニーデイ・サービス特集 九〇年代フォークの世界」の文字が。

QJ誌は、同じく青森から上京した友人・ハルキと隔号で買ってシェアしていた。初めて買ったのが何号だったかは覚えていないが、バックナンバーを見つけては買い足し、本の中だけで“今の東京”を味わっていた。

最近話題になったその悪趣味な記事の数々も、驚いたり、頷いたり、嫌な気持ちになったりしながら自分とかけ離れた世界の一つの出来事として興味深く読んでいた。その数年後にポップ路線に舵を切って成長し、生き残っていく姿を頼もしく思ったりしていたが、手元に残しているのはそうなる前の1冊だけだ。

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さて、どうやら試聴機で聴けるのがその「サニーデイ・サービス」とやらの2ndアルバム『東京』だった。

『東京』サニーデイ・サービス 

アルバムジャケットは、ケバケバしさが一切ないデザイン。時代がいつなのかもわからない桜の写真はレトロな空気と独特のノイズを纏っていて、96年当時巷で流行していた音楽で見られるデザインとは明らかに異質なものだった。その異質さを際立たせるように、隣に並べられている1stアルバム『若者たち』のジャケットは、手書きの貧乏くさい青年のイラストがドーンと描かれたものだった。

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妙に心惹かれて、試聴機で「東京」を聴いた。イントロを一聴して、これは買わなければいけない気がして、そのままレジへ。そこからファンになり、それ以来リリースがある度にCDを買い続けることになる。


当時、僕の周りにはサニーデイを好きな友達がいなかった。

それでも取り憑かれたようにサニーデイを聴きまくっていた。1人でライブに行くこともできずに雑誌を読み漁っては情報を収集し、心を満たしていた。「サニーデイはライブより音源の方が良い。ライブはうまくない」という文字を見つけ、自分がライブに行かない理由にしていた。

本当は、未知の場所であるライブハウスというものに足を踏み入れるのが怖かっただけなのだが、、、

当時「ライブがイマイチ」という情報を鵜呑みにしていて、初めてVHSでライブ映像を観た時は、演奏の荒々しさに衝撃を受け、イメージがガラッと変わった。その後もCD、雑誌にVHS、とにかく孤独に楽しんでいた。

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1996年にサニーデイに出会ってから孤独の期間を経て、初めてのサニーデイ友達が現れるのは大学卒業から1年経った2000年春、突然の出来事だった。

大学卒業後に働いた映像制作会社を3ヶ月で辞め、バイトをしながらお笑い芸人さんのライブ用の映像を作っていた僕。1年ほどその生活が続いた頃にお手伝いしていた芸人さん・アキオさんが、昔よく一緒にライブをしていたという別の芸人さんを紹介してくれた。ご縁あって、その芸人さんのライブの映像もお手伝いすることに。そんな初めての打ち合わせ、確か下北沢のマックだったと思う。

その帰り際、


「この中の『東京』って曲をエンディングに流そうと思ってるんだけど…」

その手にあったのは、サニーデイの2ndアルバム『東京』だった。

「まじすか…」

僕が戸惑っていると、

「この曲知ってる?」

「知ってるも何も、大ファンです。」

「へー」

「いや、まわりにサニーデイ好きがいなかったんで嬉しくて…」

「へー」

「東京、最高ですよね…」

「うん」


僕は嬉しくて嬉しくて叫び出しそうだったのに、彼の方は僕の感動に興味がなさそうだった。


彼の名は、やついいちろう。お笑いコンビ・エレキコミックのもじゃもじゃ頭の方。当時まだテレビなどに出だす前の、彼らの初めての単独公演の打ち合わせだった。それが2000年の春。

その年、サニーデイは解散(その後再結成)。冬には解散ライブがあり、それにもやついさんと一緒に行った。いや正確には、“一緒に行かなかった”だ。

お金もツテもなかった僕らは、チケットもないのに会場の今は無き新宿リキッドルームに向かった。当然、関係者でもないのでチケットなしで入れるわけもなく、手ぶらのまま一応受付まで行ってみて、やはり入場できないことを確認し、断念したのだった。

そのあとは、トボトボと向かいのビルの地下にあった(こちらも今は無き)生ビール190円の居酒屋「一休」へ。サニーデイを肴に酌み交わし、ライブが終わったであろう時間にまたリキッド前に行って、ライブを観たお客さん達に紛れ込み、ライブを味わった気分で帰路についた。

あれから20年が経ち、今年もエレキコミックの単独公演の映像をお手伝いする予定だ。今ではそのオープニングとエンディングのテーマをサニーデイの曽我部恵一さんが作ってくれるのが恒例になった。19歳のころには想像できなかった未来だ。

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ご縁が重なり、スペシャでディレクターとして曽我部さんの特集番組を作らせてもらったり、ライブツアーに同行したり、DVDを作ったり、レコーディングやライブでの鬼気迫るような厳しい一面も目の当たりにした。

かと思えば、エレキコミックとスペシャで番組をやっていたときには、Mr.ソガックとして真っ赤なタキシードを身に纏いマジシャンに挑戦してもらったりもした。これは今振り返っても恐れ多い無茶振りだが、爆笑した。

憧れの人はいつも最高だった。

そんな感じでいつの間にか距離が縮まってしまったサニーデイ・サービス。しかしそんな曲でもあらためて聴いてみると、忘れてしまっていた記憶が呼び起こされた。

サニーデイ・サービス「忘れてしまおう」

すっかり忘れていたが、やついさんと知り合う前にサニーデイの話をした人物が1人だけいた。1歳上の地元の先輩・カンブ先輩だ。

カンブ先輩とはちょうど96年くらいに友人宅でたまたま再会し、好きになったばかりのサニーデイの話をした。かなり朧げだが、薄暗い部屋でサニーデイや、はっぴぃえんどの話にもなった気がするし、ラジカルガジベリビンバシステムの話にもなった。

あれ以来、カンブ先輩とは会っていない。

カンブ先輩は一個上で陸上部の長距離の選手だった。確か陸上部の幹部だったことから、以来ずっとカンブと呼ばれていたと記憶している。

中学時代の僕はソフトテニス部だったので、陸上部のカンブ先輩と面識はなかったが彼の後ろ姿は一方的によく覚えている。

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中学校からの帰り道、我が家にたどり着く最後の交差点を過ぎると、どういうわけかいつも必ず僕の少し前をカンブ先輩と先輩の彼女が、肩を組んで歩いていた。カンブ先輩の彼女が僕の家の近所に住んでいたため、いつも家に送っていたのだ。

中学校のジャージ上下に身を包んだ小さな男女2人が、姿勢良く肩を組んで学校指定のリュックを背負って歩いているぎこちない背中。それを見ながら、何とも言えない気持ちでいつも後ろを歩いた。

純朴な田舎の中学生だった僕はそれを追い越すに追い越せず、分かれ道が来るまで一定距離を保って帰っていた。カンプ先輩は体格も大きくなくメガネ、決してイケメンでは無かったのに、その彼女は可愛い子だったし、その後96年に再会した時の彼女も綺麗で優しい先輩だった。

なんだか格好良く見えたカンブ先輩がサニーデイを聴いていたから、全然モテない自分も間違っていないような気がして嬉しかった。


1996年、僕は埼玉で「東京」に出会っていた。

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今回は割と今でも聴いている曲でしたが、全く脈絡のなかった思い出が呼び起こされるパターンでした。

そして僕は関わっていませんが、こちらのサニーデイ・サービスのドキュメンタリー映画、カンパニー松尾vsサニーデイ・サービス。これもまた、僕の記憶を何か刺激してくれそうです。


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