SG的おススメ本紹介① 世界は「関係」でできている
読書が好きという事もあって、おススメ本紹介をやってみたいと思い立った。何回続くかわからないが、一応第1回という事で、①とナンバリングしてある。
さて、そんな記念すべき?初回は、イタリアの理論物理学者、カルロ・ロヴェッリ氏の著作である『世界は「関係」でできている』を紹介する。
本書においてロヴェッリは、量子論について紹介し、その考え方を哲学思想と絡めてわかりやすく述べている。わかりやすく、と言っても、もともと内容がなかなか難解なので、読んだからよくわかるかと言われるとそうとも言えない。
これは、量子論そのものがなかなか通常の人間の理解の範疇にあるとは言えないからだ。こんな風に書いている私だって、正直よくわかっていない。ただし、この本を読むことでその深淵と思想に触れ、得も言われぬ知的好奇心を刺激されることは受けあえる。巷にあふれる(?)インチキ・スピリチュアル・トンデモ量子論などとはもちろん比べ物にならない。
本書を読むことで、世界とはなんたるかという私たちの自然な直観がいかに誤っているか、ということに気づくことができる。それは物理学であると同時に哲学的な解釈とも響きあう。そして、量子論的世界観を持つことは、意識とは何なのかといった、AIの進化に伴って近年ますます注目されるような問題を考える上でも重要な話にもかかわってくるようだ。
ここから本書の内容を、あくまで私の解釈で、私が重要だと思ったところを簡単に述べてみる。もし興味が湧いたら是非ご自身で読んでみていただきたい。私はこの分野に関して全く専門ではなく、間違って解釈している可能性が十分あることは、あらかじめご了承下さい。
量子論の根幹
本書で取り上げられている量子論に関して、私の理解では、「対象物の属性は別の対象物との関係においてのみ存在する」ということが根幹になっている。
この主張は、「相互作用なくして属性なし」であり、「事実は相対的である」という2つの主張が核となっている。
「相互作用なくして属性なし」というのは、対象物がほかのものと相互作用したとき、その対象物には初めて属性が存在するのであって、相互作用していないときには属性がないものと考えるべきだ、ということだ。
「事実は相対的である」というのは、客観的事実というものは存在せず、観察者が異なれば事実そのものが異なる、ということだ。
これを一言で言えば、「対象物の属性は別の対象物との関係においてのみ存在する」ということになる。
フェリーの上で歩く場合、フェリーに対して歩く速度と、流れる水に対して歩く速度は異なっているはずだ。同様に、地球に対して動く速度、太陽に対して動く速度と考えれば、すべて異なっている。
つまり、2つの存在の間の関係でしか存在しないもの、それが速度である。量子論は、世界のどんな対象のどんな属性も、この速度のように相対的にしか存在していないことを示している、とロヴェッリは解説する。
不可思議で興味深い、エンタングルメント(量子もつれ)
エンタングルメント(量子もつれ)という奇妙な現象をご存じだろうか。2つの光子(光の粒子)をエンタングルメント状態にすると、2つを引き離して遠く離れた場所で観察しても、片方の色が青であれば、もう片方も絶対に青であるという関係(相関)があるのである。しかもそれぞれの粒子の色は、観察された瞬間に判明するのに、である。
私たちの常識からすれば、片方が観察された瞬間に超高速でその情報がもう片方の光子に伝わるか、もしくはエンタングルメント状態にした時点で色が決まっていたという可能性が合理的だ。
しかし、研究によりそれらの可能性は否定された。残された説明は先ほど述べた、「対象物の属性は別の対象物との関係においてのみ存在する」によって可能になる。
観察場所が、北京とウィーンであるとしよう。北京において測定される光子の色は、北京の観察者と光子の関係によって決まる。同様にウィーンにおいて測定される光子の色は、ウィーンの観察者と光子の関係によって決まる。
同時に2地点の光子の色を観察できるような対象物は存在していないのだから、北京の観察者とウィーンの光子の色との間に、またウィーンの観察者と北京の光子の色との間には一切関係がない。「相互作用なくして属性なし」を思い出せば、光子の属性(今回であれば色)を問うこと自体が無意味であるといえるのだ。
結局、2つの光子の色が同じになっていることが確認できるのは、何らかの通信手段で双方が連絡をとったときだ。その連絡の信号が届くまで、2つの観察結果には一切関係がない。北京で観察が行われた時点では、ウィーンの観察者との関係においては、北京の光子の状態は定まっていないし、逆もまた然りだということだ。
北京とウィーンの間で連絡が行われ、信号が届くというのは、2つの対象物と相互作用する、第3の対象物が生じるということだ。そのような第3の対象物が存在し、その第3の対象物と2つの対象物(北京とウィーンの光子)が相互作用するときにはじめて、相関が現実のものとして生まれるのだ、とロヴェッリは述べる。エンタングルメントは2者でなく、3者で生じるものなのだと。その際に2つの対象物の属性は、属性である以上、第3の対象物との関係においてのみ存在する。これが直感的には不思議でも、量子論的に矛盾のない説明なのだ。
「空」の思想との関係
このように常識外れの量子論の世界だが、その思想は東洋哲学に大昔から存在していた。ナーガールジュナ(竜樹)の仏教思想である「空」は、独立したものは存在しない、という事を意味する。究極の実体や実在というものを考えることはできないのである。
この思想は、「対象物の属性は別の対象物との関係においてのみ存在する」という量子論の考えとマッチしている。関係性の網があるだけ、ということだ。自律的な本質は存在せず、相互作用のみがあるというのが、量子論的に正しい思想であり、それが東洋哲学、仏教の中に存在していたのである。
量子論で心的世界に迫る
心的世界と物理世界、思考や意識とは何なのか、といった根源的な問いに対しても、ロヴェッリは切り込んでいる。思考や意識は、意味をもたらす。私たちの心的世界はひたすら意味でできている。
量子論の基本に相対情報という概念がある。これは純粋に物理的な概念であり、2つの変数をセットで考えたときにあり得る可能性の数が、2つの変数それぞれのあり得る可能性の数の積より小さいときに、相対情報が存在するという。
相互作用における相関に満ちた相対情報だらけの世界。相対情報の網そのものでしかない物理的世界。その中で、意味とは妥当な相対情報のことだ、とロヴェッリは述べている。
生命体の内側の何かと外側の別の何かの相関の中で、ざっくり言えば生物の種の保存に妥当であるような相対情報、もちろんそこから派生するありとあらゆる直接的に生命とは関係しないものごとまで含めての相対情報。これら妥当な相対情報が、意味を与え、心的世界を生み出している。
量子論を敷衍して考えれば、物理世界における相関の特殊な例が、意味であって、その点で物理的世界と心的世界は別のものではないと考えることができるのだ。
もっと言えば、「わたし」という統合された独立した実体が存在するという直感は、正しくないかもしれない。心的過程の結果として生じるすべての記述は、相関として内側から生まれるしかない。私たちの思い込みにあるような、「自立的実体の集合で成り立っている世界の外側から、客観的に観察すること」など決してありえない。すべてが「関係」でできているのだから。
ロヴェッリのように、物理世界も心的世界も、「相互作用が織りなす複雑な構造から生じる自然現象とみなせる」と考えれば、意識に関する問題の捉え方も変わるかもしれない。