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時空を泳ぐわたしの生き方。

おはようございます、ふぁみです。

noteで文章を書くことに慣れてきました。
以前やっていたことがあるので、当然ですが。

わたしの生き方はタイトルの通り
時空を泳ぐようなワープの連続です。

わたしの生き方といっても
意図して、その生き方を選んでいるのでなく
自然と導かれるように、呼ばれた場所で生きる。
以上。

だから、他人から見れば支離滅裂で
伝わりづらいのは当たり前に起こるのです。

履歴書など社会的な書類通りに説明できれば
誰から見ても分かりやすく、助かります。

わたしの独断では決まらないライフトピック。
周りに巻き込まれるのも仕方なかったのです。

つい最近まで生きることに消極的だったのだと
自分自身で認識する流れになった。

認識していない自己認知のデータが
これまでキャッチできていなくて
フワフワしたプカプカした感覚で生きていた。

言葉にすることは自分ではなく
あくまで他人事、よく言えば客観視した話で
だからこそスラスラ語れる人間だったのです。 

いざ、心の柔らかい場所に触れるような
言葉選びをしようとすると、ぎこちないから

あれ?私って生まれてから36年経った?と
生まれ直したような感覚になるのです。

いつもいつも自分のことは初心者で
周りの期待や必要とされるニーズに自分をハメて
過ごしてきちゃったのかな?と感じました。

社会的にうまく生きるような
マニュアル的な生き方を誰もが求められて
いざ、自分の人生はどうする?と誰もが迷う。

いつだって自分の進路が分からない。
自分のことなのに、自分で分かる術を持てない。
こういう自分迷子な人が多過ぎる世界にいると
私まで侵食されていくし、疑いさえ持てなくなる。

はたと立ち止まって、空を眺める時間を作る。
何かに追われて…常に止まれない自分にならない。

止まりたい時、ペースを自分に合わせたい時に
人は人生を作り変えようとするのだろう。

周りの声や多数派の影響力って
本当に人間をその他大勢になびかせてしまう。
単純にいって、人間が一番底辺に追い込まれ
この地球の中の除け者呼ばわりにされてしまう。

自己責任という強力な磁石がいつしか
私達の幸福追求権さえ奪ってしまうのだ。

マズローの欲求段階というものがあるが
三大欲求が一番底辺だという強い言葉が
独り歩きしているのかなと思っていて

「底辺」という屈辱に似た言葉を
そのまま辞書通りに受け取ってしまいがちで
辞書通りに生きなければ、正しくなきゃと
画一的な人間性に着目しすぎなのかも。

いつから私達は型にはまった
大量生産生物を目指してしまったのか。

誰も疑わず、態度を変えられないままに
何度も同じ負のループを繰り返すことが
さも、自分の欲求だと思ってやり過ごしている。

ただの時間経過で自分は満足できるのか?
孤立した心的概念で、この世界に来た目的を
果たせるのか?恐らく、違うと思うのです。

せっかくこの地を選んだのならば
それなりの好適環境を見出す権利があるはずだ。 

これまでの生き方が流された自分の生き方なら
流されない不動の在り方でさえも選べるはず。

むしろ、このバリエーションの広さが
私達の存在する醍醐味ではないだろうか。

だからこそ、あらゆるパラレルが存在する
意義なのかなとも感じてやまないのです。

今回選んだ画像は木の上にいるネコさん。
地に足がついた、堂々たる眼差しに惹かれた。
そんな眼差しを私もしてみたいし、憧れる。

これまでがこうだったから、こうなるだろう。
それでは悲しすぎるので自分にとって
新しい世界を見せてあげられる自分でいたい。

そんな発想をしてあげられるのも自分だから。
淡い淡い期待を私自身にかけてあげようと思う。



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ふぁみ【ガイドヒーラー】
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