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#4 「自分」というものが宿る場所の話

私はいつも、昨日の自分と明日の自分を思う。

人は大体の細胞が数ヶ月くらいで入れ替わるらしい。そういう話をどこかで聞いたことがあった。

そういう意味では、数ヶ月前の自分は今この瞬間にはもう既にいないってことになる。

でも生まれてこの方、確かに自分は限りなく自分でいる。一体、何が私を私たらしめていて、この自我を今に繋ぎ止め続けているのか。

10代の後半からそういう問いがずっと自分の中にあった。「私とは誰なのか」という問いの正体はまさにそれで、「自分がここにいる意味」とか「自分がここで全うできる役割」とか、そういう問題と自分の中ですごく深く結びついていた。

実は答えみたいなのが既にちょっとあって、やっぱり記憶とか思い出とか、自分の中にある強い思いというか、それが宿っている「魂」みたいなものだと思ってる。

それが「私」という自我をこの肉体に宿し続けているんだって。

至って真剣だ。何もノスタルジックなポエムに絆されたわけじゃない。真面目に今もそう思っている。大事なのは、「科学的に正しいか」じゃない。「自分がどう納得しているのか」という、魂の問題だ。

だから私は昨日までの自分を思うし、明日はきっと今日の私を思うんだろうなと明日に思いを馳せる。

それが連続するから、昨日も今日も明日も明後日も、何年後でも私は私でいられる。いい意味でも悪い意味でも、ブレないでいられるんだ。

だから私は、自分が何か大学とか職場に応募する時、一番大事だと思ってるのは「理由」なんだ。

それが昨日と今日と明日を絶えず繋ぎ止める赤い糸になってくれる。その糸を絶対に切らさないように毎日少しずつ伸ばして紡いでいく。時に別の糸と絡まり合いながら、少しずつ少しずつ。

そうやって昔から紡いできた糸を今もこの手が握っているから、「私」という人間を突き動かす起源になってくれてる「夢」みたいなものを忘れてしまうことは絶対にない。

きっとこれから先いつになっても、叶うかどうかは別にして、「叶えたい」と願うイメージが頭の中にずっとある。社会人になってどんな壁にぶち当たっても、私がそれを忘れられずにいられるのは、そういう理由があるからだ。

人生で一番大好きな曲がある。BUMPの『アカシア』だ。その曲は、こう始まる。

そうやって始まったんだよ
  たまに忘れるほど強い理由


ハッとした時に感じる「あれ…私…なんでこんなにムキになってこんなことやってんだろ…」って気持ち。それをたった二文で表現してしまうなんて。なんて美しい歌詞なんだろうと、そう思った。

そうなってしまうくらいには、自分も気づかないほどに自分を強く駆り立てる「起源」があって、それが間違いなく「私」という自我を今に繋ぎ止め、そして「明日」へ向かって突き動かしているのだと。

敢えてこの文章は何も書き直さない。前書きも後書きも、目次も必要ない。今、このまま書かねばと思ったから書いた。

明日、来月、来年、数年後の自分がこれを読んで、まだ「私」でいることを願う。

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