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一生一品 vol.5 坂井 宏行 さん
文・撮影/長尾謙一 (素材のちから第36号より)
【Chef's Profile】
坂井 宏行 さん 「ラ・ロシェル」
1942年、鹿児島県出水市出身。17歳で料理の世界に入り「ホテル新大阪」へ。19歳でオーストラリアへ渡り「ホテルオリエンタル」で働く。帰国して銀座「四季」で3年間修業の後、青山「ココ・パームス」、「西洋膳所ジョンカナヤ麻布」で料理長を務める。1980年「ラ・ロシェル」を開店後、1989年渋谷に移転。「料理の鉄人」に出演、フレンチの鉄人として活躍する。
坂井シェフが選んだ一皿には、どんな想いが込められているのでしょう
今回の「一生一品」はフランス料理の坂井宏行シェフに取材をお願いしました。
「シェフの一生一品をご紹介ください。」とお願いすると、「蕎麦がき。」とすぐに答えが返ってきました。フランス料理のシェフがどうして「蕎麦がき」なのでしょう。
「蕎麦がき」
ありのままの蕎麦の風味を楽しむ日本伝統の凛とした蕎麦がきと違い、坂井シェフがつくる美しい「蕎麦がき」は、食べる人のこころをやさしく和ませてくれる不思議な力を持っている。
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中学の頃にはフレンチの料理人になると決めていた
子供の頃の坂井シェフはやんちゃな少年だったようですが、坂井シェフが3歳の時にお父様が戦死されたために、お母様は和裁をしながら一人で3人の子供を育て、当時は貧乏のどん底だったそうです。お母様が忙しい時には食事の準備ができないこともよくあったようで、代わりに坂井シェフが家族の食事をつくりはじめたことは、自然な流れだったのかもしれません。
「蕎麦がき」も当時つくっていたメニューの一つなのです。家で栽培していた蕎麦を石臼で蕎麦粉に挽いておいて、学校から帰ったらそれに砂糖とお湯を入れて練る。それを油でサッと揚げたり、餅のように焼いて食べるのがおやつでした。
まわりは自然溢れる田舎で、中学校の帰りに川へ寄ってカニやウナギ、アユを捕まえ、山では桑の実や栗を集め、それを持ち帰って料理をつくりました。近くの港に入ってくる大きな船で見かけるコックコートを着たコックの姿に憧れて、母親を楽にするためにも、もう中学の頃にはフレンチの料理人になることを決めていたそうです。
「中学の頃からフレンチシェフになると心に決めていた。」
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坂井宏行が残すフランス料理のあしあと
16歳になった坂井シェフは、ふるさと鹿児島から大阪へ出ます。まず仕出し弁当の店で働きはじめますが、「目指す料理と違う。」と17歳の時に〝ホテル新大阪〟へ移ります。配属されたのが〝茨木カントリー倶楽部〟で、ここからフランス料理の修業がはじまったのです。
仕事はとても楽しかったそうですが、上下関係が厳しく、先輩が黒と言えば白でも黒になってしまう時代でしたから、組織の歯車になって働くことがとても嫌だった坂井シェフは、18歳の時に思い切ってなんとオーストラリアへ渡ります。お金がないので貨物船のコックとして働きながら2か月近くかかって西オーストラリアのフリーマントルへ到着。〝ホテル・オリエンタル〟で働きはじめました。
当時のオーストラリアの料理人は包丁の使い方が下手で、坂井シェフの魚をさばく速さにスタッフは驚き、やがて頼りにされるようになります。力さえあればどんどん仕事を任せてもらえるという日本とは違うフェアな環境に、とても手ごたえがあったそうです。
オーストラリアでは1年半ほど働いて帰国後、銀座の超一流フランス料理店〝四季〟へ。ここで〝吉田茂の料理番〟として知られる伝説の料理人、志度藤雄氏に3年間師事し、フランス料理の本質を学びます。
そして28歳の時、金谷鮮治氏と出会い〝西洋膳所ジョンカナヤ麻布〟の初代料理長に抜擢されることになります。ここでつくり上げた日本の伝統的な懐石料理を取り入れた日本人のためのフランス料理こそが、坂井シェフの料理の原点となるのです。
今ではそう珍しくない懐石風のフランス料理ですが、当時はお手本がないため試行錯誤の連続だったようで、2つの違う料理文化を融合させることにしっくりこない思いが強かったようです。
しかし、懐石料理の名店で研修させてもらいながら、素材の吟味、旬の捉え方、調理の技法、盛り付けなど学んでいくにつれどんどんその魅力に惹かれていき、やがて新しい料理の形ができ上がっていきました。
それにつれて〝西洋膳所ジョンカナヤ麻布〟は懐石風のフランス料理店として超人気店となり、坂井シェフは自分の料理のスタイルをどんどん磨き込んでいったのです。
そして、1980年、坂井シェフ38歳の時に南青山にある小原流会館の地下に〝ラ・ロシェル〟を開店させます。その後の活躍は、皆さんもよくご存知でしょう。
誰にもつくれない人生のスペシャリテ
さて、ご用意いただいた「蕎麦がき」を見て、ちょっと驚きました。私の知っている素朴な「蕎麦がき」とはまったく違っていたからです。蕎麦粉に出汁を加えて葛粉のようにしっかりと練ることで、生地に風味を持たせやわらかさを出す。練り上げた生地はクネルの形に取り、これを茹で上げたものと、揚げたものに温かな出汁を合わせる。
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食べてみるととてもやわらかく、出汁と絡まってとてもやさしいおいしさです。揚げた「蕎麦がき」の香ばしさには意表を突かれました。坂井シェフの一生一品は、この「蕎麦がき」だったのです。
坂井シェフがつくり上げてきた懐石風フランス料理は、最初から人々に受け入れられたわけではありませんでした。あんなのはフランス料理じゃないと批判する人もたくさんいたと聞きます。
新たな何かが生まれる時には、そうはさせまいとする力が働くのは世の常ですが、坂井シェフはそれに負けませんでした。新たな懐石風フランス料理をつくり上げることで、伝統的なフランス料理の価値も上がることを知っていたからでしょう。
子供の頃つくった「蕎麦がき」をご自分でつくり上げた新しいフランス料理のスタイルで表現したこの「蕎麦がき」は、他の誰にもつくれない人生のスペシャリテです。坂井シェフ、ご馳走様でした。
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※この記事は2019年11月に取材したものです。
(2019年12月27日発行「素材のちから」第36号掲載記事)